「ケス ・ク・セ・シネマ? 映画文法の既成概念を壊したゴダール監督の、男と女の相違の追跡」勝手にしやがれ Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
ケス ・ク・セ・シネマ? 映画文法の既成概念を壊したゴダール監督の、男と女の相違の追跡
これまでに「女は女である」「軽蔑」「気狂いピエロ」「男性・女性」「中国女」「ウィークエンド」「カルメンという名の女」しか観ていないジャン=リュック・ゴダール監督の長編第一作を漸く鑑賞する。予想に反して、とても面白かった。と同時に斬新な演出と編集に深く感銘も受けた。ここ数年では最も映画から刺激を受けた貴重な経験を得る。
映画の面白さや良さを淀川長治氏の本で勉強した10代の頃は、ゴダール監督は追い掛ける対象ではなかった。その後、蓮實重彦氏と山田宏一氏との対談本で、淀川氏がロベルト・ロッセリーニとジャン=リュック・ゴダールの二人を映画を破壊した映画監督の代表として批判している文章を読んで半ば納得していた。映画の歴史において一大エポックのネオレアリズモとヌーベルバーグを代表する監督を認めたくない淀川長治氏の映画愛を、それなりに理解しているからだ。
この映画には起伏の有る物語性はない。あるのは一組の男女がすれ違う意識の葛藤劇。主人公ミシェル・ポワカールは、元々エール・フランスの乗客係だったのが、今は高級自動車や現金を盗む犯罪人に落ちぶれたフランス男。三週間前のニースで彼と男女の関係になったパトリシア・フランキーニは、いづれは小説家になる夢を持つアメリカ人ライター。この国籍を異にする男と女の会話劇を、パリのアパートの一室と車を走らせたパリの街並みの背景で描写したリアリティの面白さ。事件の発端は、マルセイユで車を盗んでパリに逃げる途中で追う警察官を射殺して始まる。殺人の重罪犯になり、イタリアに逃亡するための資金作りの為にパリのパトリシアのアパートに転がり込む。そして全編の四分の一を占める、アパートに押し入ったミシェルと朝帰りのパトリシアが会話するシークエンスが素晴らしい。女遊びを重ねるバツイチのミシェルの自分勝手な求愛と、そんな駄目男に惹かれながらも自立した生き方を望むパトリシアの信念がぶつかり合う。”見つめ合っても結局無意味”を、ベッドルームとバスルームだけの空間で延々と25分ほど描写しているだけなのだが、ここの台詞の面白さと演出の巧さは特に傑出している。その後の起承転結で言えば転に当たる、パトリシアがヴィタル刑事からミシェルの指名手配を知らされるシーンのカメラが二回転するワンカットが面白い。ゴダール監督は溝口健二の信奉者として有名だが、これは「雨月物語」のラストのカメラ一回転に対するオマージュになっているのかも知れない。
映画の基本的なルールを敢えて破ったジャンプカットの使用は、不思議なリズムを生んでいるし、手持ちカメラで微かにブレるフレームの不安定さは、逃亡するミシェルの心理を視覚化している。助手席のカメラに向かってミシェルが語り掛けるところも、当時では危険な試みであっただろう。既存の安定した映画文法からかけ離れたものでも、それに対するリスペクトの裏付けが感じられて、これはゴダール監督の型破りの演出と編集で独自の映像の世界観を創作した傑作であると思う。けして形無しの技法ではないし、演出と演技とマルシャン・ソラルのジャズ音楽が統一されていて素晴らしいと絶賛したい。ハンフリー・ボガートに憧れるミシェルの帽子のファッションとタバコを絶やさないジャン=ポール・ベルモンドの役作りのスマートさ。セシルカットで自立した女性像を鮮明に印象付けたジーン・セバーグの清潔感とキュートな魅力もいい。因みにヴィダル刑事を演じたダニエル・ブーランジェが、カルト的名作「まぼろしの市街戦」の脚本家と知って大変驚いた。ジャン=ピエール・メルヴィルが演じた空港でインタビューを受ける文化人の役も存在感充分。そして、この救いようがない最低の馬鹿男ミシェルを通報する密告者をゴダール監督自身が演じる戒めが、作品を作家の映画にしている。
この作品が公開された1960年の外国映画の充実度は飛び抜けている。私的ベストを付け加えて、この映画を称賛します。
「誓いの休暇」
「若者のすべて」
「太陽がいっぱい」
「甘い生活」
「チャップリンの独裁者」
「大人は判ってくれない」
「勝手にしやがれ」
「スリ」
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「サイコ」
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