「教授のメランコリー」家族の肖像(1974) 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
教授のメランコリー
若さを失うほど、若者との隔意とともに「おれはもう若くないんだな」という実感がやってくる。おおむね30代以降にそれがきて年をとるほどゆるやかに静まっていく。ゆるやかに静まっていかない奴もいて、そんな奴が若い女に執着して事件化することが定期的にある。
たとえば職場で若いアルバイトたちが休暇の旅行計画をねっしんに話し合っているのを小耳にはさむ。そこに仲間入りしようとは思わないが、もし誘われたらほいほいとついていくかもしれない。
じっさいには面倒だから仲間になりたくはない、だとしても、もし頼りにされたなら、たとえば運転手を頼まれたなら「しょうがねえな」と嫌がりつつ、内心喜んで足になるかもしれない。
じぶんがすでに若くはなく、もう若いひとたちの仲間に入れないことに、悔いのような気持ちをおぼえることがある。若い頃に戻りたくないし、仲間になりたいとも思わない。しかしわたしは若さを謳歌することなく、若さを発揮したこともなかった。青春がなかった自分への憐憫とともに、寂しさに似た気持ちが湧いてくることがある。
役名のない引退した教授(ランカスター)はローマの豪奢な楼閣に名画と蔵書に囲まれて暮らしている。孤独だが、孤独を愛していることを自得している。そこへブルモンティ伯爵夫人(シルヴァーナマンガーノ)が上階を間借りしたいと言ってくる。貸すつもりはなかったが夫人の強引さに圧されて貸すと、娘のリエッタ(クラウディアマルサーニ)や同居人のステファノ(Stefano Patrizi)や夫人の愛人であるコンラッド(ヘルムートバーガー)がやってきて、教授の静かだった日常が、ことごとく破壊される。
しかし、コンラッドは挑発的な左翼活動家だが芸術への造詣があり、放っておけない危うさがある。かれは上流階級と資本家を憎みながら、その実自身は伯爵夫人のジゴロとなって、その財貨に寄生している。その労働階級のジレンマ・自己嫌悪が、かれを激しやすくさせている。教授はそんな刺々しいコンラッドに不図、親心のようなものをおぼえる。
リエッタは現代的な不謹慎さ、今で言うならZ世代の不可解さがあるが、天衣無縫な若さと美しさを併せ持っている。コンラッドと教授がプロレタリアートとブルジョアの対比であるなら、リエッタと教授は生と死の対比である。死の匂いがする教授にたいして、リエッタは迸る(ほとばしる)ような生として顕現し、出てくるたびにパッと画が華やぐ。マルサーニは撮影時15歳だったそうだ。
教授はかれらに気分を害されながらも、手の焼ける家族ができたような父性(父代わりの気分)もおぼえるのだ。
伯爵夫人、コンラッド、リエッタ、ステファノの介入によって教授は平安をうしなう一方、かれらの喧騒に触発され、自身の家族(母や妻)の甘美な記憶がよみがえる。
しかしブルモンティの4人は結局思想的決裂をきたして離散し、コンラッドは非業の死を遂げる。教授は心身ともに打ちのめされ病褥で目を瞑る。
家族の肖像は新古や老若の断絶と、そこからくるメランコリー(憂愁)を描いている。と同時に、老齢の教授が、ブルモンティの4人に対してなしえることの限界が、そのままヴィスコンティ監督の限界につながっている。
『撮影は全て教授のアパルトマンのセットの中で行われ、これは教授の閉ざされた内的世界の表現であると共に、血栓症で倒れたヴィスコンティの移動能力の限界でもある。』
(ウィキペディア、家族の肖像(映画)より)
教授が画廊の売人から絵を売りつけられようとしているシーンで映画ははじまる。教授はかつてブランシャール画廊の常得意だったが、もう絵画を買う経済的余裕はなく、教授は売り口上に抵抗している。
ヴィスコンティを貫くテーマはヴィスコンティ自身がもつ境遇「没落する貴族」であり、享楽や文芸を捨てざるを得なくなった知識階級が、かといって労働階級になることもできず、凋落する様子が切り取られる。
教授もいわば絶滅危惧種として描かれる。かれは学識が深く、名画のコレクションも蔵書もすばらしい。しかし、間借り代金目当てにブルモンティの4人の介入をゆるしたかれは、結果さんざん翻弄されて心身をそこねる。そのとき教授の学識はなんの役に立ったであろう。アーサー・ボーウェン・デービスの家族画は、なんの慰めになったであろう。
けたたましく容喙してくるかれらに対して「家族ができたと思えばよかった」と教授は後悔するが、そんなことを思ったとしても、根本的な断絶は避けられなかった。年齢から価値観から思想から感受性から何もかもが違う人種なのだ。
そのように内実がいくら壊乱していようとも家族は「家族の肖像」画のごとく見えるものだと映画家族の肖像は言っているのである。
イタリア語の原題の訳はだいたい家族の肖像でいいと思う。英語タイトルのConversation piece(会話の断片)とは人々が交流する様子が描かれた定型の群像画のことだそうだ。
Imdb7.4、RT82%と83%。
海外ではヴィスコンティのなかではさほど評価されていない。が、日本では家族の肖像がヴィスコンティ映画のなかで認知、人気ともに高く、ウィキに『日本ではヴィスコンティの死後、1978年に公開され大ヒットを記録、ヴィスコンティ・ブームが起こった。』とあった。個人的にも絢爛と退廃のヴィスコンティよりも、これが気に入っている。黒澤明の100選にも入っているそうだ。
前述した通り映画は新古、老若の断絶を描いているが、教授が人生をかけて築き上げたものがなんだったのか疑問を呈している気配が大きい。教授は孤独を愛しているようだが、ほんとうに孤独を愛しているのか試されているようでもある。教授のメランコリーの核には若さへの憧れもあったであろう。そして、それらはすべてカメラのこちら側にいるヴィスコンティ自身の気持ちの投影だったにちがいない。