「ふくよかな熟成されたお酒に例えるべきか」家族の肖像(1974) とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
ふくよかな熟成されたお酒に例えるべきか
ランカスター氏に魅了されているからなのか。
「つまらない」と一蹴すればいいのに、何故か気になる映画。
鑑賞するたびに感想が変わる。
初めて見たときは、伯爵夫人一行の振る舞いに腹を立てて、気分は最悪だった。
書物が積み上げられている部屋に、煙草の投げ捨てをする?
人の家に不法侵入して裸になってあんなことする?ベルベットや刺繍をこらした布製の家具を総取り換えしたくなった。
全く、以前の面影のない貸部屋。趣味はいいけれど。
そんなひどいことをしても、悪びれた感じすらない。
教授が言う「言語が違う」。同じ言語を話していても通じない…。
持つ者と持たざる者との対比。
資産。教養。品格。他者への配慮。自分が根ざすべき足場。未来。世間に対する顔。こそこそしなければならない事情。心の繋がり。秘める想い。
伯爵家とその取り巻き。お金で爵位を手に入れた系の?それでいて、生まれながらの特権階級特有の、人を人として扱えない傲慢さをまき散らす。
『山猫』の人々とのあまりにもの違いに唖然となった。
教授も、その世界をどんどん浸食されて。でも…。
それを情けないと見るか、教授の孤独をそこに見るか。
教授の愛おしんでいる世界を、「趣味がいい」と理解してくれる者。利益のためだとか、見栄の為ではなく、その価値を分かち合える者。蜜月のような時間を共有できそうなのに、すぐに手からすり抜けてしまう…。何度も何度も。そして…。
でも、単なる老境の孤独の話?
コンラッドの立ち位置ー登場人物の中で、唯一コンラッドだけが根無し草。それ故のコンプレックス。足掻き。
伯爵夫人とその娘。工場主の次男ーただ与えられたものを享受するだけの存在。多くの物を手にしているようで、その権利をはく奪されたら…。
教授と呼ばれるインテリー遺産として手にした物を基盤として、自分で生み出したもので手に入れたものに囲まれて…。だが、失ったものも…。半ば墓場のような住居に住まうもの。
(明治の頃は「末は博士か大臣か」と言われるように、現代よりも大学自体が少ない希少職業だったから社会的地位は今よりずっと上?)
コンラッドが身を投じた活動とはどういうものなのか?
イタリア史には疎いから、日本で考えると、あさま山荘事件が起きたのが、この映画が公開される前の1972年。いわゆる、日本で勃発していた大学紛争みたいなものか?映画の中でもストライキの話が出ていたし。
映画の中でコンラッドは左翼とも言っていた。ブルジョアジーへの糾弾。
それなのに、ブルジョアから離れられないコンラッド。自分はペット扱いしかされないと言いながら。対等な関係になりたかったのは解るけれど、どんな対等?蛭のようにくっついて自分もブルジョアの仲間入り?
消費するだけで、愛すらも生み出さない。
そして隠し部屋。教授も、母のようにレジスタンスを庇護したつもり?
その時々を共有するだけで、そのことが終われば違う道をいく関係?ステイタスの共有?趣味の共有?
与えるものと与えられるもの。庇護するものと庇護されるもの。”対等”とは何なのか。
何をなし、何を残し、どのような時間を重ねていくのか?
人生の四季。
春の嵐の如く、奔放に若さを謳歌する三人。
夏の嵐の如くな激情を振りまく婦人。
実りの秋の如くな知識と趣味・調度類に囲まれて、豊かな時間を過ごすはずだった教授。
そして、冬が…。
そして、映画のキーワード『家族』。
家族の肖像画で埋め尽くされた家。家族もどき。たんなる”家族ごっこ”ではなく、監督ならではの想いが込められていそうな…。
監督の”遺作”と聞く。己の半生に寄せたとも。
意図して描かれたものだけでなく、意図しないものまでがにじみ出てきて…。
ネタバレになりそうなことを書き連ねても、この映画のことを理解したとは思えない。
一見理解しやすそうで、難解。
見直すたびに味わいが変わる。ふくよかな熟成されたお酒にたとえるべきか。
≪蛇足≫
『蜘蛛女のキス』のDVDについていた解説で、
原作者がだったと思うが、モリーナの役に、ランカスター氏を希望していたと言っていたと記憶する。でも、断られて、ハート氏が演じることになったので、原作者がハート氏ではイメージが違うと怒ったとか。
ハート氏はカンヌやアカデミー賞で主演男優賞を受賞されるほどの名演なのだが、
『山猫』のランカスター氏ではモリーナのイメージではないが、この『家族の肖像』のランカスター氏を見ると、ランカスター氏のモリーナも観たくなる。
ハート氏とはまた違うゾクゾク来るような怪演が見られただろうな。