インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌のレビュー・感想・評価
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金の匂いがしないな
本年度前半、個人的にもっとも観たかった映画。
コーエン兄弟新作、音楽映画、カンヌ受賞、黒髪のキャリー・マリガン、ティンバーレイクの歌、オスカー、と言ってもアカデミーのほうで、賞レースからの完全無視、カンヌから1年経っての公開、SHIPSコラボ、そして、愛しき猫。
結論から言うと、予想を全く外さない、地味ーっな映画。
主人公ルーウィンはカス野郎である。音楽に対して真摯な、とも決して言えず、将来の展望もなく、その場しのぎの小銭に手を伸ばす。
やりたいようにやっている、というよりか、踏ん切りが、落としどころが自分でもどうつけていいのかわかっていないのだろう。
それは、歌を仕事でやっていて、余興では歌わない、といいつつも、自分のレコードを売り込むときに、その選曲はないだろう、な歌を歌う。
そりゃ、「金の匂いがせんな」と言われる。
そんなだから不必要に周りの人間との口論は絶えない。
だが、不思議と周りの人間はこのカス野郎を優しく、あるいは厳しくとも迎い入れる。
彼はネコとともに行動するのだが、猫との自立的な訣別は彼のこれまでの生き方との決別を意味するのだが、彼自身が猫の象徴であり、猫が再び彼の生活圏に現れると、また彼は猫化するのである。
そうやって、ルーウィンのストーリーは繰り返される。
本作、フォークソングが聞ける人には楽しく観れる映画だと思うが、そうでない人には地味すぎて、つらいかもしれない。
画面的なハイライトは全部ティンバーレイクがらみだし。
だが、これはカス野郎が、さんざん女性に罵倒されつつも、仕事がちょっといい感じにこなしつつも、そもそもの負の連鎖からは抜け出せず、翻弄するも、ゴミみたいなプライドのせいですべてパーにするも、なぜか、愛され、という、俗に世にいう「愛すべきダメ男」をちゃんと「愛すべき男」として描けてる映画、としてみるとかなり楽しく観れると思う。
たいがいは、そんなカス野郎を愛すべき、というと嘘くささが匂って来るものだ。
そうなっていない理由は、それに一役どころか、すべてを担っていると言ってもいいのが、連れ添う猫の存在があり、ルーウィンとうまく重ねることに成功しているからだ。
確かに地味で、金の匂いがしないので、この映画自体の公開の遅れの理由はそのあたりなのかもしれない。
だがしかし、そのかわり猫の匂いはしっかりする。
否定できない生き方
ニューヨーク、1961年ガスライトカフェと字幕に。hang me, oh hang me, I will be dead
and gone. ...とルーウィンデイビスが歌い出す。 一般受けする曲というより死のうとした経験のある人に響くだろうなあと思える曲。でも 二、三日泊まらせてもらう大学教授の家に
Timain and Davisの If I had a wingのアルバムがある。大学の教授はルーウィンデイビスの才能を信じ切っているように思え、いつでも手を差し伸べている。ギリシャ料理ムサカを食
べていけと行った時も、歓迎しているようだったが、食卓で伴侶が歌い出した時、ルーウィンデイビスは『俺はプロ』だというこだわりを見せる。これは余興じゃないというふうに教授の伴侶が一緒に歌い出すのを止める。変なプライドがあり、スターダムに乗って、金を稼ぐような『流行り』の歌は作れない。Mr.Kennedy のような。多分、ルーウィンデイビスの性格からして、社交性がないようで無理だとおもう。当時は、エルビスの時代だったようだが.....全く違うタイプの人だ。この曲を味わえる人は、例えば、漁師や人生に迷っている人....猫(Ulysses) とルーウィン・デイヴィスは迷いながらも自分の道にもどるというように、ルーウィン・デイヴィスの象徴は猫の行動として描かれているようだ。でも、私はギリシャ神話をよく知らないので、この兼ね合いを見逃していると思う。それに、ちょっとコメディ風で爆笑したけど、売れないフォークシンガーの生活が切実に描かれていてよかった。人間の人生は金銭的にもプロフェッショナル面でも成功する人ばかりではない。だから、この映画は貴重だ。
シカゴ?のグロスマンに会いに行って、そこで、「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」から弾いてみてくれと言われ、ルーウィン・デイヴィスは“The Death of Queen Jane” を弾くが、“I don’t see a lot of money here.”とグロスマンが。笑っちゃうね、グロスマンは真剣なかおつきで、ノーと。
自分の生きる道を迷いながら、優柔不断でありながら、下積みをしながら、人を傷つけながら、流されながらゆっくり決めていく。それは自分のやりたいことが本当にあるから頑なに譲れないことがある。否定できない生き方。
これはもう一度観たいと思っていた映画。
実は再度この映画を見る前に、 「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」のこの映画で使われた曲などを演奏している配信を見た。それは2013年9月New York City Town Hall でのコンサート(Another Day, Another Time: Celebrating the Music of 'Inside Llewyn Davis)オスカーアイザックはもちろん、ジョーンバイス、ジャックホワイト、アーヴェットブラザーズなどが出演した。オスカーはここで、映画ではDave Van Ronkの歌を彼のスタイルで演奏したと。それはギターのTravis Pickingというメソードらしい。Dave Van Ronk とオスカーの歌い方は本当に似ているね。演技のため上手に真似をしたんだけど。この映画は歌手でもあり、俳優でもある人が数人いるので楽しめた。
『500マイル』は 『ピーターポールアンドマリー』
『500マイル』は 『ピーターポールアンドマリー』で物心つく頃に今は亡きおじぎに聞かされていた。ハモる音楽が好きだが、ここから始まるのかも知れない。その他(最初の曲とか)の曲も聞いてことがあるが、題名は知らなかった。最後の曲もボブ・ディランだろうが、曲名までは知らなかった。
詳細は知らないが、ベトナム戦争の始まる年。こう言った下地があって!反戦歌とかが生まれるんだろうと思った。
ストーリーはフィクションだろうが、よく出来たロードムービーになっていて、歌が間に入って退屈することなく過ごせた。主人公は歌がうまいと思った。
殴られて当然
総合55点 ( ストーリー:55点|キャスト:70点|演出:65点|ビジュアル:70点|音楽:60点 )
主人公は犯罪者ではないものの、ただのダメ人間である。そのダメ人間の日常を追いかけるだけで、たいした物語の流れもない。ダメ人間の過ごす数日間の出来事を、日記か散文でしたためただけのような作品に過ぎない。
物語が起伏があれば面白いかもしれない。主人公が凄い才能があったり人間性が良かったりして魅力的ならば良かったかもしれない。だがただのダメ人間のくだらない数日間をひたすら見せられて、退屈だし主人公の行動にいらいらさえした。猫も周囲の人も誰も幸せにならない。
最初に突然呼び出されて殴られて酷いなと思ったが、最後にはこんなやつは殴られて当然としか思えなかった。勿論、視聴者にそう思わせるような物語の展開になるように、わざと伏線を張って回収するように作ってあるのだろうが。そういえば『三匹荒野を行く』の映画の広告も猫が帰ってくる伏線だったし、ユリシーズという名前も漂流して帰還するという象徴なのかもしれないが、シカゴに連れていかれた猫のことはどうなのか。
歌は上手かったものの曲は退屈だったし、ただそれを劇中で聞かされるのに随分時間を取られるのも嫌だった。登場人物の演技は良かったし、ダメ人間の日常に興味を持てる人ならばいいのだろうが、自分には合わなかった。
名のある猫の歌。
O・アイザック推しの自分には期待通りでかなり満足できた作品。
コーエン兄弟がデイヴ・ヴァン・ロンクをモデルに描いた物語だが
(基盤のデイヴのアルバムジャケットが同じ作りで猫も写ってる)
実際の彼よりオスカーはかなり柔らかい美声、何とジュリアード
卒とは知らなかった!驚きの上手さ。C・マリガンも頑張ってる。
ラストに出てくるB・ディランを含めて当時のフォーク勢も満載
の嬉しい展開だがゲスト出演に近いJ・ティンバーレイクが自作
曲をA・ドライヴァーとオスカーの3人で演奏するのがお見事だ。
頑固で偏屈でだらしなくてプライドだけ人一倍高いルーウィンの
家も金もないうえ親切までも空回りするトホホな生き様を通して
彼の歌声に反映された愁いのような部分が見えてくるのは面白い。
つまるところ彼の行動すべてが自業自得、売れないのも仕方ない
と思うあたりでまた切なさが増す…響くところは確かにあるのに。
川島雄三を思い起こさせる
(3000文字まで:改行も1文字と計算)
※キネマ旬報本誌の読者評に投稿する場合は800字前後でお書きください フォークソングに興味なし。むしろあまり好きではない。そんな私は、観る前から退屈を覚悟してしていたし、実際に冒頭の「縛り首」の唄が始まって、その危惧が現実化したかのように思い始めた。
しかし、オスカー・アイザックの歌唱に惹き込まれ、結局は、「これぞ映画」と言える味わいに浸ることができた。本作を、たばことアメリカンコーヒーと伴に味わえたら、どれほど幸せだっただろうか。
知人の家のソファーを転々と泊まり歩く、宿無しの売れないフォークシンガーは、かつてデュオを組んだ相方がなぜか橋から身を投げてしまって、主人公は彼を忘れることができない。
そんな主人公の置かれた状況は、冷静に見れば深刻な状況なのだけれども、そこはコーエン兄弟の映画である。
映画は、ライブハウスの出演を終えた主人公が、外で待つ男に殴られるというシークエンスで始まる。それをもう一度繰り返して、今度は何故殴られなければならなかったのかという謎解きまで含めて見せたところで映画が終わる。
しかし、この謎解きよりも印象的なのが、カウチを宿に借りた大学教授の家を出るときに、その家の飼い猫を逃がしてしまうか、寸でのところで取り押さえることができるかという、微妙に異なる二つのシークエンスの対比である。
冒頭では、猫を逃がしてしまうが、終盤では逃げようとする猫を足でブロックして、同じ誤りを繰り返さない主人公のささやかな進歩を見せている。
これは、川島雄三の「洲崎パラダイス 赤信号」の最初と最後の勝鬨橋のロケのシーンと同じ構造と効果を持っている。腐れ縁の新珠三千代と三橋達也のどちらが先にバスに乗るかの違いだけなのだが、これが、二人のほんのわずかながらも確実に起きた変化の象徴として描かれている。
金も仕事もない主人公が、同じことの繰り返しの暮らしの中からほんの少しの進歩を得る。人生の哀歓を浮き立たせることに成功した二本の映画が自分の中で出会った。感涙に耐えない映画体験である。
かつてそこには音楽があった
音楽好きのコーエン兄弟監督作。61年のニューヨークのフォークシーンに生きる男の数奇な1週間の物語。冒頭のオスカー・アイザックが歌う“Hang on hang me”これだけで引き込まれる。失望と孤独を抱えた男の魂がそこにあるのだ。悪魔に魅入られ可笑しくも奇妙な運命に従い歌詞同様世界を渡り歩いた男。
コーエン兄弟の映画ということもあって聖書ネタと音楽が組み込まれている。終わりのない物語に見せかけているが、変わらないと思った世界が少しずつ、しかし確実に変わっていく。
猫の名前はユリシーズであり、オデッセイを体現する男の物語なのだが、ルーウィン・デイビスという男の魅力で喜劇に見える。圧倒的に作り込まれたかつてのニューヨーク、落ち着いたトーンの画作りはコーエン兄弟らしい。音楽は生録音という手法で緊張感がありサントラだとそれがよく分かる。冒頭のシーンがラストにかかってくる円環構造になっており何度も見返すと新たな発見があって飽きない作品だ。
変わらないと思った世界、ぐるぐると回り続ける物語にラスト、音楽史上において最も重要な人物の1人がステージへと上がる。微かに聞こえる彼の音楽と対象的にルーウィン・デイビスは路地裏へと向かう。誰も知らない所でギターの音色と共にルーウィン・デイビスの魂は忘れ去られていく。この映画を見た人は知っているはずだ。ルーウィン・デイビスという男と彼の奏でた音楽を。
猫とダメ人間は相性が良い。
猫の使い方がとにかくうまい。全篇を彩る歌がいい。オスカー・アイザックが歌うシーンは、ちゃんと本人のパフォーマンスだというから畏れ入る。猫を抱えて右往左往する姿も愛おしい。ぼうっと眺めているだけで大人な佳品といった趣がある。それだけでも十分に楽しめる。こういう映画にあたると嬉しくなる。
さて、これがネタバレにあたるのかどうかよく判らないのだけれど、最後に明かされる猫の名前はユリシーズという。つまり、ギリシャ神話『オデュッセイア』との関連を示唆しているんだろう。いわずと知れた20世紀文学の金字塔、ジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』と同じ趣向というわけである。
学生時代、手に取りながらちゃんと読み通せなかったぼくに、この絵解きは荷が重い。というわけで、以下はざっくりとしたイメージだけ書き留めておく。ベースとしては、『オデュッセイア』をたった1日の出来事に圧縮したジョイスに対して、コーエン兄弟は売れないフォークシンガーと猫の1週間ほどの漂流に置き換えている。
まず、主人公ルーウィン・デイヴィスとはぐれながら、ラストではいつの間にか我が家に帰り着いている猫をその名の通りオデュッセウスとするなら、ルーウィンはテレマコスということになるだろうか。ジョイスが作家志望として描いたスティーブンとも印象は重なる。とはいえ、猫の漂流そのものは描かれないから、オデュッセウスの苦難の旅に対応するのは、やはりルーウィンが大物音楽プロデューサーに会いに行くあの奇妙な道行きだろう。同道するジョン・グッドマンの怪演もまた見ものである。
ルーウィンがオデュッセウスであるなら、ペネロペはルーウィンの子を身ごもる歌手仲間のジーンということになる。もう散々いわれていることだろうけど、ジーンがルーウィンに対して繰り出す口汚い罵倒の連続は、この映画のもっとも魅力的なシーンのひとつだ。これでジーンを演じた女優の虜になったという人も少なくないはずだ。そして再びジョイスを引き合いに出すなら、この役を演じたのがキャリー・“マリガン”なのは、はたして偶然だろうか。
才能を認められながら、売れるために信念を曲げることを拒否して旅から帰ってきたルーウィンは認知症の老父を見舞う。このあたりもイタケーで再会するテレマコスとオデュッセイアに置き換えられるのかもしれない。父が元々海の男だったという設定にも何か含意があるのだろうか。そして、歌を捨てて父と同じ漁師になることにも失敗したルーウィンを、再びステージに立たせてくれるのはジーンである。
ラストで物語は冒頭とつながって奇妙な円環を結ぶ。けれども、まったく同じシーンというわけではない。ルーウィンが降りたステージに立っていたのは…。とまあ、色々な遊びや含意が仕込まれているようで、観ていてまったく飽きない。文学や音楽の素養があれば、もっと楽しめるに違いないんだけど、こればっかりは勉強してこなかった自分を恨むしかない。またいつか観直そう。
にゃーん
猫好きが見ると楽しめると言う宣伝文句をあるが
まま信じると、とんでもないショックを受ける。
(まさにアクシデントのように!)
本当に何をやってもちっともいい方向に転がらない。
世間が悪いのか、それとも彼の生き方が悪いのか。
舞台は60年代のアメリカ、日の目を見ないシンガー
ソングライターの男は毎日知り合いに寝床を借りて
生活していた。レコード会社に所属しているが、
売れる様子は一向に無い。寒い冬に羽織るものも無く、
しかしコートは不要だと強がる。
夜な夜なパブでフォークを弾き語り、友人の彼女を
寝取り孕ませ、寝床の世話になっている大学教授の
友人に暴言を吐く。
彼の生き方は猫そのものだ。
猫のように自由気ままに、ドアが開けば外に飛び出し、
寒くなれば温かい家に転がり込み、時には別人に
間違われ、最期は車に撥ねられる。
ルーウィン・デイビスの中には、ちっちゃいプライド
がたくさん詰まっていて、時にそれは気まぐれに
奮い立たせ、時にそれはきまぐれに周りに爪を起て、
時にそれはきまぐれに友人の死を悼む。
(100万回くらい!!)
ただ、彼は猫じゃない。
もし彼が猫だったなら、世の中をこんなに生き難く
過ごすことなく、自由きままに歌を歌い続けていた
事だろう。
にゃん、にゃん、にゃーん。
コーエン兄弟は手厳しい、巧い、そして意地悪。でも好き(ハート)
私は、人が不幸になる瞬間を知ってる。
それは、夢を見始めた時だ。
夢に届かない自分自身を、嘆き悲しむ。
まるで、スペインの祭りのよう。
全速力で走ってくる牛の頭を、途中でスパンと斬り落とす。
斬り落とされた牛は、そのまま数十メートル走ってから倒れる。
みんな頭なんかないのに、まるであるように走っている。
あのね、頭はもうないんだよ。
なんて手厳しい作品!
鳩尾が痛くなりました。
絶妙のタイミングでドアから逃げ出す猫。
絶妙のタイミングで窓から逃げ出す猫。
絶妙のタイミングで見つかる猫。
絶妙のタイミングで間違われる猫。
絶妙のタイミングで車のシートで見送る猫。
絶妙のタイミングで道路を横切る猫。
絶妙のタイミングで腹の上に乗る猫。
あれ?これって猫が主役だっけ?
いや違う。
可愛い顔して罵り言葉を吐くキャリーマリガンの、絶妙のタイミングで発せられる「Fu○k you」がある。
主人公はこの猫でもあり、猫は主人公の人生を表している。きっと。
ルーウィン(オスカー・アイザック)は、自分の歌しか唄わない。
他人の歌にはヤジを飛ばす。
曲に対する妙な拘り、口先三寸、掴み所のないダメ男、でも歌は上手い。
だがしかし、逃し続けるタイミング。
頭はあるのか?
ないのか?
「何様だよ」
ラスト、黒い後姿の男が発する言葉が、この主人公を代表する「ワナビ」的な人達に投げつけられたような気がした。
家康さんが言ってた。
人生に大事な事を5文字で言えば「上を見るな」
7文字で言えば「身のほどを知れ」
コーエン兄弟は手厳しい、巧い、そして意地悪。でも、好き(はーと)
観終わった後、思わず首筋を撫でる。
私の頭は、まだあるのか?
面白かった
中絶の問題が描かれていて、その後どうなったのか分からないのだが、産んで欲しいと切に願った。2歳になる子供もいるようで会いに行ってあげてほしかった。
歌詞の内容がいかにも売れなさそうで、その道を進むことの尊さは感じるものの、それが自己満足と違うのか、売れない漫画家として他人事ではなかった。それに宿無しで暮らしている割に他者に対する態度がいかがなものかと思った。
施設にいるお父さんに聞かせるニシンの歌がよかった。
長い長い人生という旅
音楽がとても良い。さすがでした。オーブラザーと同じくらい良い。当たり前か。
当時の音楽的な背景や、NYの空気感は知らないけれど、自分も経験したかのように感じられた。
才能があっても時代の波に乗れず、音楽だけでは食っていけない。日銭欲しさに後の印税を手にできない、ボブ・ディランになれなかった男。行く先々でもプライドか邪魔し、運にも見放されるなにも掴めなかった一週間。
名脇役の猫の名前がユリシーズと知って、ハッと気づく。そうか、人生とは長い長い旅なのだと。(私はユリシーズもオデュッセイアも未読ですが)
ここから世界を大きく変えていくボブ・ディランの影でルーウィンの旅路の果ては?
冒頭とラストで同じ歌を歌い、スーツの男に殴られる、結局変わらない一週間の繰り返しなのか?
いや、ルーウィンは長い旅路の果てに帰還するであろう。音楽というオデュッセイアのごとく。
人生どん詰まり
どん詰まりのどうにも前にも後ろにも行かない人生。でも、救いの手はそこらにあって気付かない、気付いてても自分を捨てれず漂ってる男の話だと思った。ジーンの住んでるアパートの廊下の間取りが彼の人生と重なって見えた。才能はあるのに性格や環境で埋もれてしまった人って今も昔も沢山いたんだろうなと切なくなった。この後ケネディの曲は大ヒットして印税入って来なかったんだろうなぁとか、ラストの演奏の後ボブ・ディランは売れて行ったんだろうと思うと辛い。
音楽がとても良かった。
愛すべきダメ男と気ままな猫をちゃんと描けている希少な映画
今年15本目。絶対に臭そうな服を着て、人の家のカウチを転々とするルーウィン。過去の栄光やプライドに囚われたダメな男…と思いきや、かつての相方との顛末をさりげなく観客に伝える中盤以降、ただのダメ男から不器用で純粋すぎるゆえにもがく男としてルーウィンの印象が反転して、ぐぐっと感情移入してしまった。
したたかで口汚いがルーウィンを許してしまうキャリーマリガンの気持ちも、わかる。面倒見の良いプロデューサーへのルーウィンの態度も、わかる。最後の歌の、絞り出すようなあの歌詞も、響く。あれはフォークというよりブルース。
コーエン兄弟らしいシニカルだけど愛のある演出手腕がビビッとはまってて好きな作品です。それにしても猫奔放すぎる(そこがかわいい)。
時は、めぐる
時代の踏台となった、名もなき男ルーウィンの一週間を描く。
最初と終りのシーンは似かよっており、ラストで振り出しに戻ったかのようで、ループを思わせる。彼のその後の人生も、こんな一週間の繰返しなのだろうなと思う。
名もなき男は、名もなき男のままで一生を終えるんだろうな、という予感である。
その予感は、一週間の出来事にも滲んでいる。
例えば初老のデブのミュージシャンが片田舎のトイレでぶっ倒れるシーン。
例えばルーウィンの父親が老人ホームの窓辺に座っているシーン。
浮き世草のルーウィンの行く末を、暗示しているかのようである。
才能はあるが金もなく扱いづらい男の未来の姿である(もっと酷いことになってるかもね…とも思う)。
人の老い先、そしてその先にある「死」が点在する。
この映画の「一週間」を見ていると、名もなき男の行く末、生涯を見ているような気持ちになる。(ルーウィン一人のというより、父親、そして自殺した相棒といった、無数の名もなき男の人生が渦巻いているようにも見える。)
そういう無数の名もなき人の人生が積み重なって、時はめぐり、歴史の一部となっていくんだろうなと思う。一人の天才(ボブ・デュランのような)のためだけに、時は流れているのではない。一人の天才だけが歴史を作っているわけでもない。
—
かつて相棒と二人で歌っていたFare Thee Wellを、ルーウィンが独りで歌うラストシーンがイイ。
映画中盤ではFare Thee Wellを歌えなかった、歌いたくなかった(相棒の死から立ち直れてなかったからだと思う)。
旅を経て、Fare Thee Wellを歌う。
華やかに高らかに誇らしげに歌い上げたりはしない。
含羞に満ち、静かである。
彼の歌には、本人、相棒…無数の名もなき人たちが滲んでいる。
だから、心打たれるのではないかと思う。
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追記:ティンバーレイクのミュージシャンとしての艶が素晴らしい。アイザック&マリガンも魅力的だった。撮影ブリュノ・デルボネルの微妙なさじ加減(マーレイ・エイブラハムのシーンなど)も良かった。
深い余韻の残る良作でした
売れないフォークシンガーのキツキツの一週間が描かれています。
スペクタクルが起こるわけでもないし、感動の結末があるわけでもない。全体的に閉塞感が漂い、妥協できずに深みにはまっていくルーウィンの姿は、画面とも相まって陰鬱な感じに終始します。
でも、際立つサブキャラ、ところどころに散りばめられたユーモアは秀逸です。製作者や役者陣の、この作品に対する、あるいはルーウィン・デイビスというキャラに対する深い愛情がひしひしと伝わってきます。
はじめのシーンをラストと重ねる演出もいいですが、初めには披露されなかった演奏シーンがラストではきちんと公開され、それがルーウィンの「心の叫び」的に響きます。
音楽はT-ボーン・バーネット担当で、生収録らしいですが、感動的です。劇中の500 MilesやPlease, Mr~のパフォーマンスだけでももう一回見たくなりますね。
コーエン兄弟ものとしてはファーゴやバーバーの次くらいに気に入りました。
久々にじわじわガツンときた
ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン監督作品は、
ノーカントリー、バーンアフターリーディング、シリアスマン、トゥルーグリッドを観ている程度。
バーンアフターとシリアスマンはあまり好きではないが・・。
今作は、作品と自分の相性が良かったのか、じわじわガツンとやられた。何度も観直したいと思う程だ。
キャリーマリガン目当てで観たけれど、しっかり映画自体にやられた。
話としては、ルーウィン・デイビスのとある一週間を描いているのだが・・・。人生の何年かの出来事なのでは・・と思う位の濃密さだ。
何より、主人公の成長がしっかりと描かれているところが好きだなと。最後、ライブで昔の相棒と歌っていた歌を歌うところは、ぐっときた。あの歌は本当に良かった。
他方で、とある一週間という物語の始まりが(朝目覚めるところから)、猫によりもたらされ、猫により動かされる。
この猫が、良い味を出していて、猫の演出がとても良かったなと。
最後の方で明かされるが、名前が「ユリシーズ」というのは、意味があるのだろうと。
アイルランド人の作品なので、ルーウィンの出自とかけているのだろうか。確か母親がアイルランドの生まれという話があったと思う。
(ウェールズではなかったよな・・と曖昧な記憶だが)
また、The Death of Queen Janeを、シカゴのライブハウスで歌うあたりもそれとなくかけているのだろうかと、邪推してしまう。
考え過ぎかな・・。
物語の初め、ステージを終えた後に、客が来ていると店の裏に導かれるが、男が待っていて、殴られるが、物語の終わりでも同じようにボコボコにされるが。
あれは、お店で暴れた罰を受けているのではと..。ライブハウスの店長の差し金だろうなと。確かにあのヤジはヒドイ、毎週同じ事してるのかと・・・。
そして、あの男を見送り、映画が終わるのだが、この終わり方も好きだった。
ボブディランもしっかりと出てきたし。
とまぁ、脳内で補完した部分があるものの、個人的にかなり好みの一作となったなと。ただ、勘違いが過分にあるかもなので、観直してみないと何とも言えないな。
ねこかわええ… AND 難しかった(追記あり)
フォークミュージックにはあんまり興味ないし、コーエン兄弟がこれまでにどんな作品を作ってたかも知らないし、役者もキャリーマリガンしか知らない、というわたしがなぜこの映画を観たか。
それはどこかで秀逸なねこ映画だと聞きかじったからです。
キジトラ?茶トラ?のねこちゃんのかわええこと…頬が緩みまくりでした。
あんなおとなしく地下鉄乗って、流れる風景を見とれてるなんて!車の中でルーウィンの膝の上で、ルーウィンと一緒に振り向く所とか、かわゆすぎる…わたしにもなでなでさせて!
もし来世とかでまともな人間になれたら、絶対にねこと暮らしたいと、叶わないまま願いたい夢なのですよ。今生では多分無理だからさ、わたしダメ人間だからさ。
そういう意味ではもう文句なしの、猫充映画でした。満足です。
ちゃんちゃん。
で終わっても良いのですが。
見る側のリテラシーが問われる構成について、わからなかった側としての感想を述べます。
以下すごいネタバレです。
冒頭、ルーウィンの歌から始まって、出番が終わったら店主に「友達が裏に来てる」と言われたので外に出たら、多分知らん男がいて「昨日野次ったヤローか?」と言われ、ボコボコにされるです。
で、次のシーンから猫と友達の家で目覚めて、猫連れ出して………と続いてゆき、
初めに歌った店でまた歌うことになり、その前日に、店に来ていたルーウィンは、中年女性が歌うステージの最中に酷いヤジを飛ばしてステージをぶち壊しにし、店を追い出されます。
でも翌日にまたその店で歌ってる。昨日の今日でよくまぁ。店主優しいなぁ…おんなじ首吊りの歌やなぁ。なんて思っていたら、
またもや、出番が終わったら店主に「友達が裏に来てる」と言われたので外に出たら、多分知らん男がいて「昨日野次ったヤローか?」と言われ、ボコボコにされるです。夕べ野次った中年女性の夫にボコボコにされたんです。そしてエンドロールが流れて終了!
ということで冒頭のシークエンスが繰り返される構成だったんですが、
これって、どうゆうことなんでしょうか?
冒頭のは未来のことで、友達の家で目覚めて猫と会うところが時間軸としては、一番過去ってことなんですよね?
では冒頭とラストに2回同じシーンを繰り返した意図はなんだったんでしょうか…?
わからんかったです。そうゆうのを読み解くリテラシーがないんですねー。しょんぼりです。
ねこと出会ってからの、ついてなくて自業自得でためだめなルーウィンの旅は、大変楽しく堪能できましたが。
構成が理解できず、、、
勉強が足りませんなぁ。
あと、ねこのなまえがユリシーズだったことも何かの隠喩だと思われますが、わかんなかったです。以上。
ちゃんちゃん。
↑このように書いてから一週間。この映画の構成について考え続けてしまったのですが!ともだちともわからんよねーとかゆってたんですが!
わかったかも!ということで追記。
あれは、冒頭のは予知夢ですね。
夢で観てた→猫に起こされて一週間ついてない日々をすごした→らすとにボコボコ。あれ?なんかデジャブ…→夢でみたんだ!
で、説明できますね。なるほどなるほど!
すっきりした!
夢オチなんですなー!
お騒がせしました。
着飾らない歌。
持ち物は一本のギター、と名もなき猫。
舞台は1960年、NY。大志を抱く事もなく、日々を受け入れて変わらない日々を過ごす。
主観的な映像が少しずつ変わらない日常の中にある変化を捉える。
レコードの売れ枚数以外で結果をはかる事が出来ない姿は時代を感じさせる。必死でPCにしがみついてプロモートを行う現代のミュージシャン達が感情移入するのは難しいだろう。
歌声、雰囲気共にオスカー・アイザックは素晴らしい。またキャリー・マリガンの毒舌っぷりが最高に良い。受け身の男性にはたまらないだろう。もちろんジャスティン・ティンバーレイクの歌声も。もっとセッションしてほしかった。
「シュガーマン」よりもキャストに力があるが、そもそも題材にしている男の知名度が低いので、どこまで広がって行くのか楽しみ。
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