「ラストは父権の不在」家族ゲーム よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
ラストは父権の不在
バブル時代の家族の危機を予見するかのような、薄ら寒さを感じさせる。誰かのレビューにあった、川島雄三の「しとやかな獣」を想起させる点が確かにある。しかし、あるとすれば物語の舞台が団地ということ以上に、森田芳光と川島に共通するシニカルな現代社会への視線ではなかろうか。
現代社会(川島は言うに及ばず、森田の生きた時代もすでに我々にとっての「現代」というには過ぎ去ったものであるが)を皮肉を込めて描いているが、その中にかすかな希望を見出し、冷めきった人間関係の中にほのかな温かみを感じさせる映画。これが両者に共通するものではなかろうか。
この作品を観たものが必ず感じるラストの不可解さについては、一言述べずにはいられない。
ヘリコプターの音が聞こえる昼下がり。二人の息子は自室で眠り、母親もヘリの音を気にしつつも、趣味の革細工の手を止めてまどろんでいくという幕切れ。
重要なことは、このラストで初めて映し出されるのが夫婦の寝室だということなのだ。それまで映画に出てくるのは、居間兼食堂と子供たちの部屋だけである。そして、映画の最後になってこの問題多き夫婦の居室が初めて出てくるのである。
しかもこの部屋には何もない。ベッドも置かれていない殺風景なこの部屋で、伊丹十三と由紀さおりの夫婦の営みがあるようには見えない。これは単なる観客の推測ではなく、その営みがこの部屋では行われていないことは予め映画では言及されているのだ。
伊丹が「大きな声で話ができるところへ行こう」と由紀を誘い、自家用車の中で親の本音を口にするシークエンスは、夫婦がもはや自宅の中に、一組の男女に戻れる場所を持っていないことを示している。色めき立つ由紀に伊丹が「まさか、いまから化粧をするんじゃないだろうな」というのは、まさにそういう意味であろう。
もはや団地という家屋には核家族の中核である夫婦の居場所がないということ。その夫婦は自分たちの人生を犠牲にして子供を育てる。しかも、ここでの「育てる」ということの意味はより学力の高い学校へ進学をさせるということに他ならない。
伊丹が演じるこの父親は悪びれずに言う。「自分が直接子供に言ったのでは金属バット殺人が起きてしまう。だから、母親や家庭教師に代わりに言わせているのだ。」と。
父親殺しのテーマなど現代社会や受験戦争が生み出したものでも何でもない。ギリシャ神話でも扱われるこのテーマに対して、この父親(他の多くの父親もそうであろう)のとった戦略は、息子と直接向き合わないことで、息子の不満や憎悪の対象となることを免れようとするものだった。
実にこの戦略は成功したかに見えた。ちょっと風変わりだが熱心な家庭教師のおかげで、変わり者の次男は親の希望する学校に合格する。しかし、父親はもはや家族を経済的に支える機能しか果たさず、子供に対してリスクを負う存在ではなくなってしまった。
もしかしたら殺されるかもしれないというリスクを回避する代わりに家族の中の居場所を失う。父権不在の家族の出現。言うなれば新しい「家族ゲーム」の始まりである。
ヘリコプターの音に導かれてベランダへ出る由紀さおりが、自分たち夫婦の寝室を通る。夫婦の寝室を映画のラストで唐突に映し出すには、その部屋に誰かが入る契機が必要だったのだ。