アクト・オブ・キリングのレビュー・感想・評価
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作りは安いのに中身はどぎつい。
演技もセットなどの作りも学芸会以下なのだが、
演者が本物すぎる。そして色々と気がつき始める。
人とはここまで残忍になれるし、それを美化したり
することもできる。インドネシアの独特な雰囲気と
独特な世界観が作品の不気味さをさらに濃くしていく。
また見たいとは思えないなぁ。
知っておくべき事実
1965年のインドネシア。
インドネシアの初代大統領スカルノ(デヴィ夫人の旦那さん)の親衛隊が軍事クーデター事件を起こした。後に「9・30事件」と呼ばれる出来事。
クーデター自体は失敗に終わったようだが、スカルノはこの事件を機に退任、クーデター首謀者のスハルト(少将)はその後実権を握り第2代大統領へ。そして、国内の共産党を徹底的に弾圧し、インドネシア共産党を壊滅へ追い込む。
その共産党弾圧の際に、100万人?(映画では100万人と言っていたが、人数は諸説あるらしい。)もの人達が殺されたようだが、その実行を担った「プレマン」と呼ばれる、日本で言ういわゆるヤクザ達。そのプレマンは何と、インドネシア国内では今も共産主義者を殺した「英雄」として扱われているらしい。
この映画は、そのプレマン達が過去の自分たちが行った虐殺の再現を映画として撮る、その過程を映したドキュメンタリー映画だ。
この設定自体がそもそもあり得ない。
普通は自分たちが行った虐殺を再現しようなんて人はまず居ない。
しかし、これは今でも社会的にはその虐殺が肯定されているインドネシアの社会背景と、登場人物が無類の映画好きという条件があってこそ実現したことだろう。
で、このプレマン達、ほんとどうしようも無い。
自分たちがどんな効率的な殺し方をしたかを嬉々として語る。虐殺のシーンを撮る際も、当時女をレイプしたとか、相手が14歳だとたまらないとか、聞いてて反吐が出るようなことを平気で語る。まぁ、ヤクザなので当たり前と言えば当たり前だけど。
しかし、主人公のアンワル老人だけは、映画の撮影を通して変わっていく。
自分が殺される側の人間を演じることにより、当時、相手がどう思っていたかを考えるに至り、徐々に罪の意識に苛まれていく。
最後、アンワル老人は話をしながら嘔吐するような仕草を見せる。
自分の行った行為の意味を理解し、そのことを身体が受け付けなくなった結果だろうか?
このシーンが、この映画の唯一の救いのように思える。
と言うのも、アンワル老人以外は、全く映画を通して変わることは無いからだ。
当たり前のように現在の生活に戻り、過去を振り返ることも無く、愚行を繰り返す。
今でもインドネシアではプレマン達が実権を握り、政治/マスコミ/裏社会など、社会の至るところに浸透している。
裏社会はどんな社会でも存在する。当然日本にもある。
祭りを取り仕切るテキ屋や、みかじめ料(場所代)を取る制度もある。しかし、それは通常表に出てくることは無い。必要悪ではあるが、社会のメンバー全員で表には出さないようにする。それを徹底する。
理由は、「そうしないと社会体制を維持できないから」だ。
必要悪(暴力的な行為)が当然のように表に出る、そんな社会に住みたい人は多くない。私もそんな社会はまっぴらだ。だからこそメンバー全員で隠す。「悪」というレッテルを貼ってまで徹底する。
インドネシアはそこが完全に反転してる。
必要悪ではなく、それが「正義」になってしまっている。
だからこそ、ヤクザがむしろ「英雄」になる。
日本で生まれ暮らしている自分の感覚とかけ離れた、あまりに異常な社会。
映画の中で、プレマン達は楽しそうに振る舞っている。しかし、その楽しさは薄っぺらい感じがした。本当に楽しんでるようには見えない。作中でも、「みんな本当はくそくらえ」と思ってる、みたいなことを誰かが言っていた。
こんな社会では、ヤクザにでもならないと良い生活が出来ない。しかし、ヤクザになって良い生活が送れるようになったとしても、過去に罪悪感を感じるような行為を少なからず行っているはずだ。罪の意識が無いならばかなり人格が壊れていると思うし、感じれば感じたで罪の意識に苛まれる。
「幸せ」については人によって考え方が違うが、私は「幸せ」はいわゆる「普通の(平凡な)生活」の中にあると思っている。そして、「普通の生活」は自分だけでなく社会のメンバー全員の協力があって初めて成り立つモノだと思う。
なので、周りにそんな日常的に暴力を振るう人や罪の意識に苛まれてる人、汚職を当たり前に行うような人がゴロゴロいる社会で、「普通の生活」を楽しく送れるとは思えない。
インドネシアという国で、この状況を改善する道があるのか?
今はその道が全く見えないんじゃないだろうか?
つまり、「未来に希望が見い出せない」。
それが、プレマン達の薄っぺらい楽しげな雰囲気や、映画全体の重苦しさに繋がっているように思える。
しかし、今まで知らなかったインドネシアの問題点を知ることが出来たのは自分にとって意味があった。
どうせ日本のマスコミではほぼ扱わないだろうから、映画を通して知るべき。これは人ごとじゃないんだから。
立場が変わればどんな人間でも同じことをする可能性がある。加害者にも被害者にもなる。
だからこそ、この映画は観るべき価値がある。
また、当時の日本(佐藤栄作政権)は、この虐殺した政権を反共産党という理由だけで支持したことも覚えておくべきこと。
興味深いけど観るのはつらい。
被害者の息子に被害者役をやらせる場面は観るのがつらかった。
「1度しかできない。」「俺にはわかるんだよ。俺が罪人だとゆうことなのか?」
加害者側の言葉に臨場感がありすぎて作品の見事さに感服いたします。
法で裁かれるよりも苦しい罰
自分がアメリカ映画や音楽を平和の象徴として愛してきた若者だったので、主人公たちのように、欧米のエンターテイメントを規制し、国民が貧困にあえぐような政策をする共産主義撲滅のための人殺しを、「人民を解放するために必要なことだ」と正当化することなど、簡単に出来てしまったのではないかと思った。虐殺の様子の演技は稚拙でバカバカしいのだが、それでも段々と上手になって行き、上手くなればなるほど本人たちが自分の行動を正当化できなくなっていく様が非常に興味深かった。この人たちは殺人を法律で裁かれることはなかったが、死ぬまで罪の意識にさいなまれるのは、法で裁かれるより辛い罰だと思った。
正義面した映画製作者と観客が一番怖かった
この映画を一言で言い表すと「グロテスク」。
映像も分かりやすくグロテスクだし、社会や人の闇の部分をこれでもかと突きつけてくる様もグロテスク。
その衝撃により観るものに虐殺行為に対する嫌悪を呼び起こし、50年前の出来事を告発する映画とも言える。
また、人の行為の善悪は時と場所により相対化されるが、相対化されない・普遍的な感性が人間の中にある、ということを訴えている映画とも言える。
そんなことを思いつつ観進めるが、終盤に行くにつれ、この映画の撮影自体がグロテスクだと感じられるようになった。
それは、加害者と被害者の、昇華させることのできないトラウマをえぐりだす行為であった。
映画では最後に、とってつけ感に満ちた天国的なシーンで無理やり昇華された形になっている。
だが、現実の演者は救われないままだ。
ドキュメンタリー制作側は、こうなることは分かっていたやったはず。
そのことが、演者の表情を見ていると、グロテスクなまでに残酷な行為に思えてきた。
制作側は、自らの属する社会通俗的な"善"を紋所を携え、映画化・ドキュメンタリー化という行為を通して、罪人を裁いているかのように見える。
罪を自覚させる場所に追い込んでゆく、一見ソフトな方法によって。
しかし、それは、まさにインドネシアで虐殺者のやったことと同じではないのか。
どちらも無自覚なサディズムではないのか。
「共産主義者だから残虐行為をしてもよい」と「残虐行為者だから精神的に追い詰めてもよい」は限りなく相似だと感じた。
(悪いことをした人やその仲間は報復されてもしょうがないというような考え方は我々が憎んでいるテロの論理そのものではないか?)
もしそのことに製作者が無自覚で、観た者も無自覚であったら、それが一番怖い…などと考えはじめてしまったことで、映画の後味がよくなくなってしまった。
でも、後味の悪さは映画の悪さではない。
観る価値のある映画だと思う。
こんな映画は、もしかしたら生まれなかったほうがよかったのかもしれないが、できてしまったからには観ておいたほうがよい映画だと思う。
この映画は二度と撮影できない
1960年代にインドネシアで起きたクーデターで起こった虐殺で、実行者として大きく関わっていた男の話。実行者本人を起用し、当時を再現した映画撮影を行っていくのだが、撮影を進めていくうちに男は途方もない後悔の念を抱くことになる。
男は日本でいえばヤクザのような存在。
皆から恐れられ、取り巻きから尊敬され、誰も否定をしない。
男は当時の出来事を嬉々として語り、ここで殺した、こうやって殺したという話を誇りを持ってカメラに語り、こうした方がリアルだ、こうやって苦しむんだという演技指導を繰り返す。
ところが虐殺のシーンを繰り返し撮影していくうちに、男は押し黙る時間が増えていく。
印象的な村民虐殺のシーン。一般エキストラを雇い映画撮影を行うが、当時を思い出し足腰の立たなくなる老人が居たり、父母の危機を感じ本気で号泣する子供がいる。
男は初めて自分の行った事を後悔する。
この映画の冒頭シーンで男が嬉々として語っていた建物の屋上に場面が移り、男はその場で嘔吐する。
最後、男は編集された映画を見るが、虐殺シーンでは目を背け、滝を背景にした踊りのシーンでは「良い場面だ」と言う。
男の誇らしげであり嬉々とした態度からその後の吐き気を催す後悔という瞬間を撮影したものとして、この映画は唯一無二となるだろう。この男は二度と撮影は受けないだろうし、受けたとしても二度と同じ反応は示さない。
この映画はもう二度と撮影できない。
暴力肯定のために与えられた歪んだ正義
1965年9月30日、インドネシアで起きたクーデター未遂を鎮圧したスハルト少将。後にスハルトが大統領にまで上り詰めるが、その過程で、クーデターの黒幕は共産党だと断定され、共産党の関係者、労働組合員、中国人など100万人以上が殺害された。しかし、こうした虐殺について国内で批判される事はなく、むしろ虐殺の実行者たちは、インドネシア国内で成功者・実力者となっており、賞讃さえされていた。この虐殺事件の真相に迫るドキュメンタリー映画が本作である。
本作が、虐殺の実行者たち自らの撮影などによって展開される事に驚きがある。このリアリティは、まるで87年の『ゆきゆきて、神軍』の迫力を彷彿とさせる。
殺人=暴力を肯定するために実行者たちには「社会正義のために」という理屈が与えられる。虐殺の実行者たちは、共産主義を迫害することが正義であるという大義名分によって、虐待から数十年を経た今でも、自らの行動が正しかったと主張する。
しかし、本当に権力を得ている人間、実行者を陰で操っていた人間たちは、その歪められた理屈の危うさを理解している。途中、副大臣が撮影現場で「今のシーンは我々のイメージを悪くする」と指摘しているが、彼らは虐殺が国際的に非難される事がよく理解できているのだ。
主人公は若い頃からハリウッド映画が好きだった。そうした素養があったからこそ、映画の展開が進み、当時の虐殺を正面から見つめ直して行くうちに、自己嫌悪に陥っていく。しかし、それが理解できない仲間達……。社会の脆さがここに表されている。
登場人物たちの歪められた正義は、しかし他人事ではない。
彼らは「アメリカはイラク戦争のとき、『大量破壊兵器がある』と嘘をついてイラクを攻撃した。しかしそんな事実はなかった。戦争の勝利者が正義を決める」と指摘する。
アメリカも、インドネシア政府を支持し続けてきた日本も、けっして対岸の火事の他人事として片付けてはいけない事を本作は我々に突き付ける。
悪の生まれる条件
この長尺の映画が伝えようとしていることは、案外にシンプルなものなのではないか?悪人とは、もともと悪人として生まれ育つのではない。彼を取り巻く環境や、彼にのしかかる権力の重圧。そうした諸条件によって、人は変哲のない善人から、歴史に名を刻むこととなる悪人にも変わるのである。
ドキュメンタリーの中心的な存在であるアンワル・コンゴ。彼は、当時1000人以上を殺害した加害者である。しかし、このドキュメンタリーの中で制作される映画では被害者を演じると、単なる芝居を超えた怯え、疲労困憊の表情を隠さない。しかも、彼はこのシーンをまだ自分の幼い孫たちに見せるのである。
自分が拷問を受ける立場だったらどうだろうか。自分の肉親が非人道的な扱いを受けたあげくに命を奪われたらどう思うだろうか。この問いに対する答えを、アンワルは被害者の役を演じることで、自らの心の中に見つけることになる。
もしも立場が逆だったら、自分の運命と相手を恨まずにいられるだろうか。自分の大切な人がそのような仕打ちを受けていたら、秩序や社会を信頼し、自分の未来を信じることが出来るだろうか。
自分が手を下そうとしている相手への想像。この想像を忌避することが悪行を生み出す。人間をこの想像から遠ざけるもの、人間から想像力を奪い取るものの正体こそ権力ではなかろうか。そして、この権力次第で、人間は悪にも善にもなりうる。
もちろんここでいう権力とは国家権力や暴力装置の権力に限られるものではない。人間の想像力を奪うもの、メディア、地域社会などのコミュニティなども含まれる。虐殺のない日本のような社会にも、メディアや雰囲気に想像力を奪われた人々が、他人の迷惑を顧みずに交差点を跋扈する光景が見られるではないか。
凄い内容だが
事前にレビューを見過ぎて
展開が分かってしまっている自分がいた←
映画的なエンターテインメントは期待してはいけない
ドキュメンタリーとしては超絶に優秀な作品
(制作されるはずだった彼等プレマンが「期待する映画」自体は、「この映画」では要所要所で少し映されるだけ)
翻訳が悪いのか、はたまたワザとなのか字幕の言葉を追ってくだけだと彼等プレマンが「本当にただのバカ」にしか見えない
(表現が悪く申し訳ない)
「俺たちは残酷だ」「自分達は強い」「力を誇示しないとしけない」「俺たちは悪くない」「国際法はアメリカだって反しているんだ、我々も従う理由はない」
知性の欠片も感じられない生き物にみえる
これが途上国か…
現代日本に生まれて良かったと心から思った
最高のシーンは、最後に制作された彼等の「期待する映画」のオープニングかエンディングが流れるシーン
滝の前で、殺された共産主義者の英霊(?)が首から針金の輪を外し、アンワルと握手をし
「処刑してくれてありがとう。
おかげで天国に旅立てました。
1000回お礼を言っても足りないです。」
みたいな事を言う
最高に胸くそ悪い、グロテスクなシーンだった
右も左も東も西も
1965年に起きたインドネシア9・30クーデターとその後の虐殺。本作は虐殺の加害者側に取材したドキュメンタリー。
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1965年といえば、インドネシアの国連脱退(イギリスとの対立)があり、アメリカのベトナム北爆開始があり、アルジェリアのクーデターがあり、中国文化大革命の端緒となった年だ。
それら諸々の流れに影響を受け、また影響を与えた事件だった。
国際的な因果だけではなく、インドネシア国内においても、政治的対立・経済的格差・宗教・文化・人種など様々な要因が絡んだ事件だった。インドネシア共産党(PKI)関係者等が虐殺された理由も一つではなく、地域ごとに異なっていた。
この映画では、それら国内外の因果は描かれてはいない。本作を観て、史実が分かる訳ではないと思う。
ただ、この事件を、知らないor忘れたor忘れた振りをしている人々に、思い出させるには、充分インパクトのある映画だったと思う。
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この映画の中で、アディ・ズルカドリ(虐殺の実行者)の言葉が印象的だった。
ある新聞記者が「(殺害が)こんな風に行われているとは知らなかった」と言う場面がある。それに対し、アディは「知らなかった筈はないだろう。我々は隠してなかったのだから」と答える。
あくまで新聞記者に対してのセリフであるが、50年近く忘れた振りをしてきた諸外国に対しての言葉のようにも思える。
虐殺があった事は、当時、日本を含めた諸外国でも報道されている。それにもかかわらず、各国黙認してきた。
1960年代の東西対立の中で、インドネシアが反共に舵を切ったこの事件は、西側にとって、渡りに船だった。だから、黙認というプロパカンダをし(英)、PKIの殺害リストを提供し(米)、洪水被害の名目で当時インドネシアへ資金援助(日)したのではなかったか。
西側だけではなく、中国も、事件前PKIに資金や武器を援助して親密以上の関係だったにもかかわらず、虐殺を逃れて中国側に亡命してきたPKIや華人に冷淡だった。
右も左も東も西も、知ってたのに知らない振りをした事件。
この事件を掘り起こせばインドネシアのみならず自国に都合の悪い事もポロポロと出てくるからだ。
本作は、インドネシア(映画に写っている側)への告発でもあり、忘れた振りをしてきた各国(この映画を撮ってる側&観客)への告発でもあると思った。
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この映画の中で、主役の隣人スルヨノ氏も、とても印象的だった。スルヨノ氏の継父は虐殺事件に巻き込まれ殺された。「誰も助けてくれなかった」と笑いながら泣きながら訴える。いまだ表だって当時のことを批判できない。だから笑いながら遠慮しながら言う。そして加害者と被害者が隣り合って暮らしている現状。
皆が忘れた振りをして、やり過ごしている影で、殺されても笑うしか無い人々が居るという残酷さ。
私は、スルヨノ氏のシーンが一番辛かった。
想像を絶した企画力
そんな印象の映画。
主題は奪い奪ってきた者達に焦点が当てられているが、観終わって記憶に強く残っているのは、奪われ、そして今も奪われ続けている者達の姿。糾弾することも出来ず、搾取する者から逃れる事も出来ない彼らの、笑顔の下にある渦巻く感情。
いやー兎に角観るべきかと!
前半は怠い感じだけど、布石と思って最後まで観れば、圧倒的現実を前に色々考えざるをえなくなるはず。
ドキュメンタリー
過去に大変な虐殺があり、今日加害者は英雄扱いをされている。
このことを知るためだけでも本作を観る価値があると思う。
虐殺という行為はとんでもないことだが、正当化されている状況が気持ち悪いし、レベルは違えど身近にも起こり得る状況だと思った。
インドネシアに住んでいる人の全てが加害者達を英雄視しているわけではないだろうし、本作の描いたものもほんの一面に過ぎないだろう。
政治色の強い事象だが、機会があれば生の声を聞きたい。
人間の多面性
これを歴史的な虐殺の戒めとして観るなら宇野惟正氏の言うように「全否定」となるのかもしれない。暴力で支配を繰り返してきた国の中心であるアメリカの監督がこの虐殺を安易に否定することは甚だおかしな事で、先ずはお前の国からだろうという話である。
しかし、この作品が残酷なまでに描きだしている「人間の多面性」は驚愕に値するものだ。本作の鑑賞後の感想として「酷い人がいるものね。」となるのか「自分もああなり得る。」となるのかでは全くこの映画の意味は異なるのである。鳥の怪我を心配した後に嬉々として虐殺の内容を自慢気に話す。この様なシーンが本作には何度も意図的に挿入されている。勿論、どちらが本物だ偽物だとかそんな単純な話ではない。どちらも本物であり人間とはそうゆう多面性の生き物だということをそれらのシーンは如実に表している。本作には「勝ったものが正義であって、勝ったものが秩序なのだ。」「お前にとっての地獄は俺にとっての天国だ。」という印象的な言葉が出てくる。その秩序が間違っているとは思いつつも、その現実を否定することは出来ない。事実そうであるのだから。これは他人事ではない。日本が万が一、第二次世界大戦に勝っていたら、自分もあっち側にいたのかもしれないのだ。状況によっては誰しもが無自覚に時代の「歯車」になってしまう。それは、とてつもなく恐ろしいことだ。
どんな極悪非道な人間でも優しい一面はあり、どんな博愛主義者にも醜い一面はある。スクリーンの向こうに映し出される人々を切り離して考えるのか、自分の延長線上に見るのか。安倍政権発足後、その歯車になりうる現実味を帯びてきてしまったこの時代に、大きな指針となる偉大な作品だった。
怖かった
もっとエキサイティングなものを予想していたらけっこう地味で退屈だった。町山智浩さんの解説の方が面白かった。
おじいさんが50年前の自分の罪に気づいて、吐き気を催す場面が本当に苦しそうで迫力があった。
インドネシアの民兵組織の制服がオレンジと黒の迷彩柄という毒々しいもので、特撮ヒーローものだったら絶対に悪の軍団だ。彼らが虐殺の再現をする場面は本当に悪そうだった。
太った男が女装させられたり、完全におもちゃにされていた。彼が調子に乗って選挙に出て落選したのは面白かった。
軍が政権を握るといろいろと良くない感じがした。インドネシアは近年『ザ・レイド』やシラットが注目されているのだが、深い闇を感じた。
どこまでが演技でどこからが本音なのかが曖昧、という体裁はユニークではあるが個人的には微妙。
時折挿入されるスタイリッシュで鮮やかな服装の出演者たち。それらはどれも耽美的で過剰なほどに虐殺を行った者たちを美化しているようでもある。彼ら(体制側)の文脈ではあのような世界で生きているのかもしれないが、外から見れば滑稽である。(マツコ似というかそのものにみえるあのオッサンの破壊力はおいといて)
モキュメンタリーのようですらある本作は、語られている歴史的事実が深刻であることさえもあやふやにしている。それは彼らの時に嬉々とした語り口や、ふと自らの残虐性に気づいた際の過剰に見える仕草や振る舞いなどで助長されているのだ。また華僑の義父を惨殺された息子が撮影に立ち会って当時の話を笑いながら(怖れからともとれるが)こと細かく語るシーンなども「これって何なの?」と思わずにはいられない。そしてつまるところそうした違和感や実験的なオリジナリティが本作の魅力なのだろう。
ただ、個人的にはそのアプローチはさほど響かなかったかな。
エンドロールが匿名希望って
主人公のアンワルコンゴは若い頃、プレマン(フリーマンが訛ったもの)と呼ばれる街のゴロツキで映画館のダフ屋みたいな事をしていたが、1965年のスカルノ大統領失脚後の共産党狩りで1,000人ほど殺した事で英雄的な扱いを受けている人物。
副大統領や新聞社の社長とも普通に会っているが、そんな偉い人たちもアンワルコンゴを粗末には扱わない。
共産党狩りは彼らが主導した虐殺だからである。
そこが、日本との1番の違いで、彼等プレマンは選挙に出たり、認められた存在であること。そんな彼らが市場の店主をゆすって金を巻き上げている。
強かん、強盗、人の殺し方を自慢げに語る。
そんな彼らが知恵と人脈を結集して映画をつくるという。
まるでドラマの中の様な、あり得ない状況はドキュメンタリーかどうかわからなくなってくる。
ラストシーンの後のアンワルコンゴがどうなったのか知りたい。
革命の恐ろしさを目の当たりにした凄い映画である。 84点
被害者の追随体験という残酷さ
初回立見でいってきた。
インドネシアで行われた250万人といわれる大虐殺の加害者たちは”戦争の勝利”によって罰せられず英雄としてこれまで生きてきた。その真実を今回加害者自身が加害者役or被害者役として演じる。
最初は誇るかのように笑顔で演じていたけれど、次第に「俺たちは残酷だった」と言う。相手の立場になって考えてみる、のショック療法みたいだった。
怖いとか可哀想とか加害者被害者どちらにむけていいのかわからなくなり、ああこれが歴史の作られ方なんだって思う。
虫けらが人を虫けらのように殺していた実話
軍事クーデターによって樹立された、現インドネシア政府。なんともまあ、彼らは品性の欠片もなく、欲望をさらけ出し、多くの、あまりにも数多くの人(おそらくほとんどが罪のない)を虐殺してきた。それを、うれしそうに再現してみせる。しかも、稚拙なB級ホラーのゾンビのようなお粗末さなメイクと演技で。
彼らは、ただのギャングではないか。こんな国家がいまだ存在することの恐ろしさに震える。
この映画、ドキュメンタリーとして撮影を続けながら、主人公の白髪の老人の心理に変化が現れてくる。
殺される側を演じたあたりから、それまで嬉々として、自分の孫にまで殺人を自慢していた彼の表情が曇りだす。そして、処刑現場でその殺人シーンを解説しながら、突如えずいた。何度も。しかし、吐こうにも、胃の中は空っぽらしい。たぶんもう、ひとりのときに散々吐いているのだ。ようやく、罪の意識が芽生えたわけだ。遅いけど。
その姿をうしろから捕らえ、消えていく。このシーンが、この映画としての救いだった。
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