花咲くころのレビュー・感想・評価
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武器を手放す勇気
一瞬たりとも目を離してはもったいない。素晴らしいショットと色彩。
少女の中の男性中心の社会へ対する反感と、彼女を取り巻く人間関係の緊張が、交互に高まっていくスリリングな展開。
一級の映画である。
主人公の少女エカとナティアの瑞々しさについて、いまここで言及することなどもはや陳腐ではないかと思うほどに、誰もが二人の素晴らしさに脱帽するだろう。
特に、ナティアの結婚を祝う席で踊るエカに恐ろしいほどにひきこまれた。誘拐婚にもかかわらず幸せそうな親友や、男たちが歌う女性賛美の歌に、寒々しさや空々しさを感じている観客の思いが乗り移ったかのような、周囲への反発と侮蔑に満ちた表情は映画のハイライトである。
ナティアの夫が、かつてナティアが想いをよせていた男を、嫉妬のあまり殺す。ナティアにとってはどちらも人生にかけがえのない男であったのだが、一方は命を失い、片方はその罪を背負うことになる。
ここには迫り来る内戦の不穏な空気があらわれている。二人の少女は内戦が弾ける前に、それが人びとにもたらすであろう不条理を身をもって経験している。
ここで観客は、映画冒頭のバスのシーンで、ラジオから流れていた勇ましい言葉を思い起こすことになる。
男たちは武器を手にし、女を拐かす。それこそがグルジアの男なのだと誇らしげですらある。少女たちはそのような男社会に反感を抱きながらも、自分の運命を受け入れ、二人は武器を手放すことにする。
現実の社会では、多くの男たちがこれを、少女は男社会に屈服したと捉えるだろう。だが、観客は見ているのだ。真に勇気を持っているのは、誰なのかということを。
そうした経験をしたエカが、収監中の父親に面会しに行くところで映画が終わるところもまたいい。
父と何を話すのか。父をどういう人間だと思うのか。幻滅というよりも絶望的なまでの社会への不信は、同時に男性への不信である。その男性/社会の象徴でもある父に会って、エカが確認したいことは何なのだろうか。自分の父親も、社会を闊歩する男たちと何ら変わることがない人間なのか。それとも。
エカと世界がこのあとどのようにとり結ばれていくのか。大きな不安に立ち向かおうとしているエカの勇気が強く光る。
大好きまグルジア映画
大好きなグルジア(ジョージア)映画、女性監督の視点で描かれるグルジアはどうだろうと楽しみにしてたのですが、とても良かった。
1992年の内戦状態のグルジアの地で、2人の少女エカとナティアの友情が、戦争の不安定な社会情勢と呼応するような少女達の危うい綱渡りのような日々が繊細に描かれている。
不安定な経済と治安で大人達は苛立ち、殺伐としている中での2人の瑞々しい姿や、女の子達が集まって酒を飲み煙草を吸い歌を歌ってるシーンとかいかにもグルジア映画って感じで最高。
画面のトーンはずっと薄暗いのにエカ達の姿だけが色彩豊かに色鮮やかに見えてくる錯覚すら感じた。
でもいつこの日常に暗い影が落ちるのか、つきまとう不安と不穏さにドキドキしながら見てしまった。
結婚式のときに、抵抗の意思を見せる為にエカが踊った踊りは、本来グルジアの男性が踊るものらしく、
エカの大人達の様にはならない、悪意や暴力の連鎖はもう起こさない、とゆう意思のこもった静かな眼差しは、監督の意思そのものだったんだろう。
自分がもう生まれてる時代に、誘拐婚とゆう行為がグルジアでおこっていたのがすごくショッキングだったし
社会的メッセージ性と芸術性、映画の魅力もとても高い大好きな映画。
肝心なところは、特に詳細に描いて欲しい。
エカとナティアの普段の生活を通して、グルジアの現状を伝えた作品。ラストは、「えっ?どういうこと?」という印象を終えた。エカの父親が「受刑者って…。」そのような描写はあったかということ。そしてラドの刺殺場面。ラドとコテの関係も、少し首を傾げたくなる。少女たちやラドの歌っていた歌は、グルジアの流行歌?肝心な場面が詳細にしっかりと描かれていない。二人の女性の間でヒヤヒヤさせられた「拳銃」。「あの拳銃」は、何を象徴するものであったのであろうか。
「あの目を知っている」
土曜日の朝九時。ベローチェでコーヒーを飲んでいた。退屈を紛らわせるために「映画」という万人共通の「余暇検索ワード」で調べて1992年のジョージア(グルジア)映画で十四歳の少女二人の友情物語「花咲くころ」を見に行くことにした。「内戦」「配給」「結婚の強要」というワードだけでもうハッピーエンドではない解説だったけれども、チェコ映画の「ひなぎく」を思い出して、名前も知らない国の女の子二人が出てくる映画が面白かったジンクスを信じた。
この映画を一言で言い表すと
「この子たちのこの目の意味を知っている」
というところに尽きる。国と時間を超えて、彼女たちの瞳の中に「私が十四歳だった頃にしていた目」を見てしまったからだ。「ものはハッキリ言わないと気が済まない」勝気なナティアと、「できればいろんなことをやりすごしたい」いじめられっ子のエカという少女二人が登場する。
彼女たちの置かれている環境は冒頭で触れたとおり「超最悪」の状況で、ナティアとエカは環境の変化でお互いの関係が逆転する。
それが、誘拐の果ての恐喝結婚式のシーン。「あの男愛してるの?」とエカが聞いて「たぶん」とナティアが答える。「その目はうれしくないの?」と今度はナティアがきいて「結婚おめでとう」とエカがいう。誰も幸せそうじゃない。狂ってるのが当たり前だからもうなんとも思わない。楽しいことがあればそれでいい。そんな気持ちでエカが一口もものを食べず、お酒を一杯くいっと飲んで、踊りを披露するところは胸を打つ。それは「シャラホ」という男性商人の踊りで、彼女は一言も口をきかず、身体で「反抗」を表現する。
あの睨むことしかできない、あの目を知っていた。強い力に押さえつけられて、自由が一つもなく、感情表現が叫ぶことしかできない。その行き場を失った感情の破片が、とてもよく晴れた町や森の小道の暖かそうな画から、くっきりと影のように鋭利な影を浮き彫りにする。ひとつもまるくて優しいものがない、強くて、尖ってギザギザとした中に、確かな「美しさ」が光を放っていた。
忘れていた気持ちが全部ぶちまけられてテーブルに乗った気持ちになって、見終わった後、しばらく動けず、泣きすぎて顔が痛かった。
十四歳で「中二病」というワードがネガティブワードとして認知されているけれども、ものを作り出す、生み出す人たちの心の奥底にはそういう「狂気」が多かれ少なかれあって、吐くように泣きわめいたり、のたうち回ったりする醜い姿こそが「何かを産み出す衝動」にまっすぐ繋がっていることも、「行き場のない思いや感情」を何とか形にしていうこうする思いが、背中から立ち上る「生きる力」として全身を駆け巡る赤い血の一雫となって生命をきらめかせている、という事実をこの映画の中に見つけてしまった。
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