「痛みを体験させるのではなくて、見せる映画」それでも夜は明ける 鰐さんの映画レビュー(感想・評価)
痛みを体験させるのではなくて、見せる映画
群衆の中に重要なキャラクターが立つ場合、その人物はさりげなく他と差異をつけ撮られ、群衆から浮き上がる。けれど、この映画のオープニングではそうはならない。
一列に並んだ黒人たちのなかに主人公が立っている。けれど、黒人たちはどれも等価で、誰が主人公がなのか観客には判別できない。ただの一列に並んだ黒人、という単位でしか見られない。
十九世紀の南部。黒人は木々や草花と同じ、さして際立たない背景のひとつにすぎなかった。
見る側の映画か見られる側の映画か、どちらなのかと問われたら、前者なのだろうと思う。
二時間にわたって展開される長編はけして平坦ではないものの、ジェットコースター的な
エンタメの起伏からは程遠い。なにせタイトルからして「十二年間、奴隷として」だ。実人生にすれば気が遠くなるような長期間だが、映画においては単なる「帰還までの期限」にすぎない。主人公がどんな目にあおうとも、家族のもとに戻るラストは保証されている。
では、あらかじめネタを割ってまでマックイーンが見せたいものとはなにか。もちろん、暴力だ。
この映画において、奴隷が攻め苛まれるシーンはいずれも異常なまでの長尺の長回しでねちっこく撮られる。打擲、女の嘆き、首吊り、レイプ、鞭打ち。暴力の結果としての傷跡を含め、カメラは余さず記録する。
けれど、どこまで行っても一歩引いた視点から撮っているように見えるのはなぜだろう。おそらく、その暴力に「痛くみせよう」というたくらみが不在だからではないか。
被害者の視点からの痛みを描きたいならホラーやスプラッタに学べばいい。いまやそれらの分野は痛さ表現のスペシャリストだ。いくらでも劇的に、効果的に観客の感情を操作し、奴隷に感情移入させられる。
しかし、この映画は痛みに過剰さを与えなかった。それはリアルさの追求以上の目的にそって行われた選択だったのだろうと思う。つまり、マックイーンは観客に被害者になることを許さなかったのだ。
そして、 代わりに目撃者になることを強いた。ある意味では被害者にさせられるよりハードだ。マックイーンはかつての黒人奴隷の子孫たちを除くすべての観客を加害者として告発したのだから。
だから、長回しの暴力に伴っているのは痛みではない。居心地の悪さだ。
聖書朗読の最中に号泣する母親の姿に、首吊りで死にかけている男の後ろで無邪気に遊ぶ子供たちに、妻が見つめている前で自分が手篭めにした奴隷を鞭打たなければならない農園主に、無類のきまずさが満ちている。
席を立ちたいくらいのいたたまれなさに悩まされるけれど、それは奴隷の痛みに共感しているからではない。光景そのものの息苦しさに耐えられないからだ。百年後の地球の裏側という距離がもたらす絶妙な隔絶は、たぶん当地の人間たちとは根本的に異なるのだろうけれど、映像が惹起する体験自体は、実のところあまり変わらないんじゃないか。