「早熟の天才の力をあらためて示す一作」トム・アット・ザ・ファーム arakazuさんの映画レビュー(感想・評価)
早熟の天才の力をあらためて示す一作
何かに追い立てられるように、
亡き恋人ギョームへの言葉を書き連ねるトム。
紙ナプキンに滲む青いインク。
今にも雨が降り出しそうな低く重い雲。
何処までも続くトウモロコシ畑。
恋人ギョームを亡くしたトムは、葬儀のためにギョームの実家である農場を訪ねる。
帰省することの少なかった息子の友人をギョームの母親アガットは喜んで迎えてくれるが、彼女は息子の恋人はサラという名の女性だと思い込んでいる。二人の(恋人)関係を知る兄フランシスは、母親に本当のことを言うなと強要するが…。
多分、フランシスは母親からの抑圧に加え、自分の性的志向に対しても抑圧を感じている。
彼が弟が同性愛者だったということを隠したいのは、自分が母親に疑われることを避けたいからだろうし、弟と親しげにしていた男に暴力を振るったのも、自分の中の性的志向(弟に対する思い)への反応だったのだと思う。
だから、トムとフランシスがタンゴを踊るシーンやフランシスがトムの首を絞めるシーンは官能的に映る。
この物語の中では、二者によって引き合う綱引きではなく、複雑に絡み合った目に見えない感情的な綱引きがスリリングに展開される。
極端に閉鎖的な人間関係、空間においてパワーバランスが刻一刻と揺らいでいくのだ。
この恐ろしいまでの緊張感が全編を支配する。
威圧的なフランシスと、ギョームとの関係を隠すよう強要されるトムの間では、フランシスが主導権を握っているように見える。
しかし、そのフランシスも母親アガットに対しては小さな子供のように従順で、母親の抑圧は彼が恐らく幼い頃からのものだと分かる。
この一家の中では、先ず父親が亡くなったことでバランスが崩れ、ギョームが家を出たことで崩れ、そしてギョームの代わりにトムが現れたことで、親子の関係が再び揺らぐ。
冒頭のシーンで、トムはギョームの死に対して出来るのはギョームの代わりを見つけることだと書くが、彼にとってギョームの代わりはフランシスで、アガットとフランシスにとってはトムだった。
そして、閉ざされた世界で歪な形にせよ三人の関係が安定してきた矢先、サラの登場でこの関係も崩れていく。
原作は同名の戯曲。
戯曲の映像化というと、何も知らずに観ても戯曲が原作であることは、その“戯曲臭さ”で気付いてしまうことが多いのだが、今作ではそれを一切感じなかった。
(戯曲と知ってから考えると、バーの主人の台詞はちょっと説明的過ぎたかもしれない)
書くそばから滲んでいく青いインクも、
どんよりと曇った空も、
すっかり葉が枯れたトウモロコシ畑も、
死んだ子牛も、
赤から青に変わる信号も、
抜きにしてこの映画は成立しない。
弱冠25歳にしてこの完成度。
恐るべし!グザヴィエ・ドラン!