アデル、ブルーは熱い色のレビュー・感想・評価
全34件中、21~34件目を表示
長いというけれど
見逃しに見逃して、やっと鑑賞。
179分という表示にかなり構えて観はじめたが、長さをまったく感じさせなかった。全編通して二人の演技が素晴らしく、映像も美しいがフランス映画でございます〜、といったのっぺり映画でもなかったので、意外に観やすかった。
2人がいったいどんな結末を迎えるのか、途中からはもっと観ていたい、という衝動に駆られる。
恋愛映画ではあるんだけれども、哲学の話や、将来の話が日常的に出てくる描写など、国民性も表現されていたと思う。
お互いの両親が、かなり突っ込んで将来の展望を聞きたがるところなど、日本じゃなかなか見ないシーンだなぁ、と印象的だった。
しかし、レア・セドゥー、最近観る映画にやたら出てくるんだが、観るたびに印象が違う。そして二人のスタイル・肌の綺麗さはほんとに素晴らしい…
本気の恋ならば、明日死んでも構わない
アデルにとってエマ以外の人はいなくて、エマにとってアデル以外の人はいない。それでも結ばれない、死ぬまで運命の人。だとしても、それぞれ別の人と幸せになるんだろうなぁ。
運命の人だからって結ばれる訳ではないし、結ばれたからって運命の人ではないことを今さらながらに認識しました。
刹那的な愛、熱く、儚く、美しく。
高校生のアデルと青い髪の大学生エマの愛を描き、2013年度のカンヌ国際映画祭でパルムドールに輝いた話題作。
レズビアンカップルの同性愛と言ってしまえばそれまでだが、単にそれだけとは言い切れない。
冒頭、視線が合い、一瞬で惹かれ合う感情の定義から始まる。
つまりは一目惚れではあるのだけれど、そんな男女間のロマンチックなものではなく、瞬く間に火が付くような愛の形。
この直後、アデルは交差点でエマと一瞬視線が合い、心奪われ、そして情熱的な愛を欲するようになる。
この出会いのシーンだけで、本作がロマンチックな恋物語とは程遠い、刹那的な愛の物語であると印象付ける。
アデル役のアデル・エグザルコプロスは個人的には初めましてだが、現在20歳ですでに9年のキャリアだと言う。最初、ボサボサ頭で垢抜けないごく普通の高校生だった彼女がエマと出会って、少しずつ洗練されていく様も魅力的。
“静”のアデルに対して“動”のエマ。演じるレア・セドゥーはセクシーでキュートな印象だったが、ボーイッシュな格好良さ。「ボーイズ・ドント・クライ」のヒラリー・スワンクを思い出した。
話題になったのが、主演二人によるラブシーン。
確かに濃厚ではあるけど、言うほどでもなかったような…?
もっと全てをさらけ出すような生々しい絡みだと思っていたので、ちょっとインパクト不足。
しかし、体を張ったプレイには拍手。
3時間の長尺をじっくり見せたアブデラティフ・ケシシュ監督の演出も見事。
本作は、二人の出会いと愛と別れまでの話。
二人の距離が擦れ違い始めた時の、エマの髪の色の変化にも注目。
激しく燃え上がった炎はあっと言う間に燃え尽きる。
刹那的な愛の形は、熱く、儚く、美しく。
追記:見たのがレンタル版だったので、超絶性交シーンはカットされてたとか。残念!
ブルーが熱いなんて!
レズビアンの恋愛映画ということだけに焦点をあてたら、大間違いです。
この作品は、「フィルムが美しい」「フランスの社会背景がきちんと描かれている」「恋愛の本質が分かる」と美的・知的好奇心をくすぐられる作品です。
二人は心も体も相性が良かったのでしょう。恋愛の本質だと思います。
気になる→愛しあう→飽きる→喧嘩する→別れるは恋にはつきもの。そう、どんなに愛しあっていたとしても!
エマは、完璧に女が惚れる要素を演じきっており、惚れてしまいました。素晴らしい女優です。
しかし、「ブルーは熱い色」だなんて、粋!
パスタが踊る
エマのホームパーティーで、集まった人々がスパゲッティを食べるシーンが切なかったなあ。
皆、インテリさんで育ちがイイから食べ方が上品。口元は殆ど汚れない。
パスタが口元で踊っているような、四方八方へ散らかす豪快な(嫌な言い方をすれば下品な)食べ方をしていたのは、アルジェリア人のお客さんだけ。
バッググラウンドの違いを、こうもまざまざと見せつけるのか…と切なくなった。
パスタが踊る…それは、アデルとその家族の食べ方でもある。
—
アデルとエマ。
性的な壁は乗り越え恋人同士になったものの、別な壁が2人の間にはあった。
進歩的でインテリで芸術家を目指すエマ。そういう家庭環境に育った彼女。
対してアデルは「芸術で腹が膨れるの?」的な庶民の家庭で育った。
「パンのために働くこと」をどこか下にみているエマ。
「パンのために働くこと」は当たり前だと思っているアデル。
家庭・教育・教養・慣習・生活レベルの差…目に見えない壁・階層が厳然とある。
人間みな平等で、理屈の上では乗り越えられそうなものだけど、そう甘くはない。
—
階層をテーマにした映画はたくさんあるが…。
私は本作を観て、同じくフランス映画、シャブロル監督の『女鹿』を思い出した。
『女鹿』も階層の違う2人の女の逢瀬を描いている。(シャブロル作品の多くは階層がテーマだ。)
シャブロル監督は、インテリ側(本作エマのような立場)の視点で、文学的に「階層のコンフリクト」を描いた。
対し本作ケシシュ監督が描く「階層のコンフリクト」は、もっと庶民的で実際的だ。
どちらかといえば、本作アデルのような立場の視点で描いているのではないか。
ケシシュ監督の前作『クスクス粒の秘密』でも、フランスにおけるチェニジア移民の階層・コンフリクトを描いていたが、そこには自身(監督もチェニジア移民)の実感と自省が籠っていたと思う。
本作にしても『クスクス〜』にしても、社会的テーマを入れつつ、固くなりすぎないケシシュ監督の撮り方、面白いなあと思う。
—
社会背景諸々を、エモーションが迸る青春映画の中に、溶かしこんだ本作。
一時的とはいえ壁の一切合切を押し流した主役二人の情熱が、心に残る映画だった。
観ないと損ですよ
エマの語る実存とは生きる意味に覚醒すること。アデルは動物的欲望によって食べて、生殖し、眠る人間。他人を尊重せず、欲望のまま、時間に流され生きている。それがエマとの別れの理由でもある。そんなアデルが実存に気付く個展シーンは必見。個展を後にするアデル。欲のままに生きる映画俳優の声はもう届かない。もちろん恋愛映画としてもトラウマになりそうな傑作。
ちなみにエマが尊敬するサルトルは、労働者階級の解放こそが人間に残された最後の救い、という言葉を残している。それはこの映画そのもの。
とても美しいがあまくない
きらきらしたガールミーツガールものかと思いきや、さにあらず。
とても美しいがあまくない、厳しい物語。
主演のアデル・エグザルコプロスとレア・セドゥはもう恐ろしいほど素晴らしい。
それにしても、2度のパーティの場面。
生きている人々の中で自分だけが空洞を抱えたブリキ缶のような、
どれだけ動こうと繋がりも機能もしない感覚。
いつもすぐに記憶に蓋をしてきたあの光景をスクリーンで観るとは思わなかった。
劇場を出てからも否応なくフラッシュバックする。
参った……。
上映時間約3時間
上映時間が長く、眠気との戦いがありました。そしてセックスシーンも長く、心の中でもういいよと思っていた自分がいました。
アデルに感情移入していらっしゃる方もおり、その人たちは泣きながら鑑賞していました。
しかし自分は残念ながら誰にも鑑賞移入をすることがなかったため退屈だと思ってしまいました。切なさを残して終わるようなラストです。その後の行く末を自分で考えてハッピーエンドかそうでないかが決まる作品だと思います。
斬新な愛情表現
さすがにパルムドールを受賞しただけある見応えのある映画だと感じた。特にアデルとエマがけんかするシーンは見物。アデルの懇願し謝る表情の描写と演技。エマの押さえようのない怒り、罵声。それどもどうにか許しを請うアデルの演技は、本当にリアルで素晴らしかった。他の場面でも台詞が哲学的でとてもおしゃれな感じがする。
激しい渇望の描写に麻薬的に填りそうになる怖~い作品
最長7分に及ぶフルヌードのレズシーンは圧巻!しかも長々と絡むシーンは3回はありました。ここまで激しく裸体をさらけ出して、互いを求め合う姿には、厭らしさを超えてパッションを感じました。まさに迸る情念の世界。でもタイトルに「ブルー」がつくのは、なんで?と疑問に思われることでしょう。作品のルックは、美しく繊細な描写ながらも決して根暗なブルーではありませんでした。なぜ「ブルーは熱い色」となるのか。これはラストシーンをご覧になれば納得されると思います。
ラストで主人公のアデルが纏うコバルトブルーの艶やかな衣装が鮮烈でした。この衣装の色がすべてを物語っていると思います。この服を着て、アデルはかつて激しく愛し合ったエマと3年ぶりの再会を果たすのです。アデルにとってのブルーは、髪を青く染めていたエマを象徴する色であったのです。アデルのエマとの忘れがたい強い強い思いを凝縮したかのように、画面のブルーに「熱さ」を感じずにいられませんでした。本作に於いて、耽美だけど、ブルーは熱い色となり得たわけなのです。ブルーを纏うアデルを包み込むかのように、街の色までもがブルーが強調されていて、美しかったです。
しかし、フランス映画の本作は、ご多分にもれず娯楽性を否定して、哲学しているだけに、半端な思いで鑑賞すると手痛いしっぺ返しを喰らうことになるでしょう。何しろ上映時間が長い!3時間もあるのです。その間にどうでもいいような日常生活の描写ややたら長回しで描く登場人物の心情描写が続くのです。またストーリーでも突っ込みどころ満載で、前半のヤマ場となるアデルとエマが出会いシーンは、まさかこんな偶然で出会うわけないだろうと、まさかまさかと目を凝らしていたらやっぱり出会ってしまったので愕然としました。そのシュチエーションが凄いのです。
街角の交差点で髪を青く染めたエマとすれ違っただけなのに、アデルは一目惚れ。その後もエマの幻影を求めるのです。たまたまクラスメートに誘われて、ゲイバーにでかけたものの、ひょっとしたらあの多い髪の女性と出会えるかもと思いつきで店を出て、夜の歓楽街を彷徨い、たまたま入った別のゲイバーで虚ろに目を泳がせていたら、なんとエマがいて、彼女のほうから口説いてきたのです。こんな都合の良すぎる話なんて映画の世界ぐらいのものでしょう。
まだまだあります。放課後になるとアデルの通っている高校の校門にエマが迎えにくるようになったのはいいのです。でもエマのボーイッシュな風貌から、一発でクラスメートたちは、これはレズの関係だと見抜き、アデルをいじめるのです。キリスト教社会では同性愛はタブーなので、異端視されても仕方ありません。乱闘騒ぎまで起こったのに、いつの間にかいじめはなくなってしまっていました。
アデルとエマが別れるシーンも唐突です。さらに、チョットした嫉妬心から男に手を出してしまった過ちをエマは決して許さなかったです。
こうしてストーリーを振り返った見るとき、割と監督はその場の思いつきで、ストーリーをハパッと決めているのではないかと感じました。それでストーリーが力業で強引に進んでしまったしても、それがオレの芸術なんだ、観客に媚びないのだと豪語されそうです。
そんな傲慢さを感じる作品なのに、何故だか女性の心を掴んで強く揺すぶる作品でもあるというところが不思議です。何しろ一緒に試写会に同行した女性は、号泣したそうなのです。あの衝撃的な映像の奥には、心に空洞を抱えている女性のハートを直撃して揺すぶるものがあるのでしょうか。アデルとエマがすれ違い視線を交わした瞬間から、それを見つめる女性の観客にまで、何か穴のようなものに落ちたような気分に陥り、引き込まれてしまうのでしょう。
ただし注意すべきはその心の空いた「穴のようなもの」の存在です。何が欠けているのかというと『真実の愛』なんです。『アナと雪の女王』で語られた『真実の愛』が満たされていないから、心にぽっかり穴が空き、吹雪のなかにいるように寒いのです。しかもエマは実存主義者で、キリスト教的価値感を否定して、『真実の愛』を拒絶。代わりに自分の個性を主張することで「心の穴」を塞いでしまおうとあがいていたのでした。エマにとって、タブーの同性愛にのめり込むのは、自らの個性の主張でもあったのです。しかし、真実の愛を拒絶し続ける限り、どんなに求め合っても「心の穴」という刹那は解消されないでしょう。渇愛というのは、まるで血の池地獄のように性愛に浸り続けないと、心が渇いて、虚ろで独りでいられないものです。
アデルと別れたあと、エマの髪の色がブルーから普通に戻ったとき、その反社会規範的な考え方が家庭愛のほうへ変わったんじゃないかなと思えました。
ただし、誰の心に奥にも「心の穴」は潜んでいます。ひょっとしたら、スクリーン上の“青い髪の女”と目と目が合っただけで、アデルのように虜になってしまうのかもしれません。たとえ刹那と知っていても、肉体の煩悩を忘れさせてくれる激しい快楽に浸ってみたいという渇望は否定しがたい感情です。なのでそんな未知なる感覚に取り込まれてしまうそうな、麻薬的な怖~い作品なんだと付け加えておきます。
リアルな恋愛体験
主人公が恋を知って、一生懸命愛したけどうまくいかなくって、やがて別れるしかなくなった。
身も蓋もない感想ですが…そうゆうことを、描いた作品だと思います。
でも、そのふつーな筋を、印象的な映像で、語り口でどう表現するかが、芸なんですよね。作家のオリジナリティ、とも言えるのか?
好きか嫌いでいえば、好きに近いです。
楽しく(?)見られました。
アデルのリスみたいな前歯と、エマの前歯のすきっ歯が目につきました。それだけアップが多かったんでしょう。
あと、アデルの髪型ぼさぼさすぎるやろ!(それでも、様になってたけど)
+18たる所以の性描写、たしかに長いですけど、あって良かったと思います。
食べ方がきたない、は多少おもいました。アデルのおとーさんが特に。
つか、この映画に限らず、フランス映画の食卓シーンはあまり綺麗でないと思う。料理も食べ方も机も。
家庭の食文化はあんまり成熟してないんかなーていつも思うです。
アデルは、いつか他の誰かを、好きになれるのかな?と、切なく思うラストの後ろ姿でした。
本能
いっぱい描かれてた性欲と食欲と睡眠欲。同性を愛することだってそれらに並ぶくらい当事者にとってはあたりまえで自然なことですよ。
アデル可愛かった。唇の形が可愛い。
この映画見て初めて浮気ってそんなにダメなんだ…って思った。印象の「怖い」ってエマのことだからね!女の子こわい。
傑作。
これほど深く感銘を受けた恋愛映画は数少ない。初めてと言っても過言ではないだろう。
この作品の特殊な部分としてセクシャルマイノリティの恋、異常なまでのアップと長回しの多用、必要以上に長く激しい性描写があげられる。しかし、そのどれもが只の飛び道具的なものではなく、ちゃんとした必然性がある。
まずはアップについてだが、主人公の二人のシーンでは二人の顔以外、ほぼ何も映されていない。これは二人がその時、その瞬間、他の物が見えなくなるほど相手に没頭している事を指し示すのと同時に揺れ動く感情を台詞ではなく表情で伝えるという点でも嘘臭くなくて良かった。我々観客も二人の感情を共有するために有効な手段だったといえる。また、長回しも800時間にも及ぶ撮影時間の中、あのドキュメンタリーを見ているかのような自然な演技を引き出すために必要だったと推測できる。後々長回しだったと気付くほどで違和感のあるシーンもほぼなかった。
性描写についてはなぜここまで長く見せる必要があるのか最初はいささか疑問であったが、なるほど。後半からラストのアデルがエマを激しく求めるシーンにかけて効いてくるのである。あそこまでお互いがお互いを激しく求めあっているものを長々と見せられた後に訪れる別れ。その喪失感を観客は否が応でも共感せざるを得ない。作品全体を通すと感情が全面にでた印象を受けるが、こういう部分を見ると実に緻密に計算されて作られていることがわかる。
最後にセクシャルマイノリティの恋についてだが、まず物語というのは特殊でないとならない。それは単純にそうでないと面白くないからだ。そういう意味でレズビアンの恋というのは特殊だ。しかし、この作品の素晴らしいのは、それを特殊だと押し付けがましくやるのではなく普通の思春期の恋として描いているのである。描いているのではあるが、恋愛の普遍的な部分として「相手にとって自分が唯一無二の存在でありたい」「この人しかいない」「運命」といった願望や理想がこの設定ではより強烈に浮かび上がってくる。それを違うと知った時の現実。そして、自分もその他大勢の中の1人と理解したアデルはラストカットでアップではなく引きの絵で遠くへ歩いていくのである。
もう…こりゃ最高でしょ。1週間はこの映画のあらゆるシーンが頭からは離れなかった。ここまで尾を引く作品も久しぶり。生涯の中でも忘れられない1本となりました。
一つの愛に果敢に立ち向かった姿に心うたれました。
寝顔、食べる顔、見つめる顔、アデルの顔が何度もスクリーンいっぱいに映される度に”mignon”という映画の台詞が反芻しました。外国の女優を「美人だ」と思ったことは多々ありますが、「かわいい」と思ったのは初めてです。私は、外国人に、とくに白人に容姿でコンプレックスを植え付けられてきた世代ですが、最近はアジアンビューティのほうが好ましく感じられていました。映画も子供の頃は豪華さ、かっこよさで洋画一辺倒でしたが、日本の俳優のプロポーションも今では外国の俳優と引けをとらず、一方で外国人の「バタ臭さ」が消化できなくなってきて、今では邦画を見ることがほとんどです。そんな折り、世界最先端の「かわいい」文化の日本にいて、「バタ臭い」はずの外国人女優に何度も「かわいい」を心の中で連発するとは自分自身驚きでした。
同性愛については原作ほど主たるテーマになっていませんでした。二人の愛の始まりにときめき、成就に喝采し、破局と孤独に同情し、終局に悲しむ。アデルの若くて未熟な恋愛の過程をハラハラしながら見入ってしまいました。エマが男でも、女でも、多分同じ気持ちで観ていたと思います。ベッドシーンはフランス映画にありがちですが、ちょっと必然性がない場面が多かったかと。美術館とのシーンをシンクロさせることを考えると一回くらいはあってもいいのかもしれませんが。
印象的だったのはアデルがエマに追い出されてから、淡々と教師の仕事をこなす姿と、孤独に打ちひしがれ、感情を抑えきれずにいるシーンが交互に映し出されたところです。教師の仕事をしている彼女の姿は無感情で事務的な印象すらありますが、その生業が孤独な彼女を救っている。皮肉にも、教職はエマに価値を否定されたものでした。片や、エマに伸ばすよう迫られた文才。泣きながら綴った日記は原作ではストーリーそのものとして語られていましたが、この映画の中では一片も読まれません。「あくまで個人的なもの」というアデルの意志が貫かれているかのようでした。
大きく原作と異なるラスト。エマの個展に招待され足を運ぶアデル。そこでかつてアトリエに招き、自分が切り盛りしたパーティーと同じ面々が集っている。アデルは愛想程度の会話を交わすと早々に会場を後にします。その時の彼女の思いはどんなものか、ずっと考えさせられました。昔のパーティーで、エマのパートナーとして周囲から祝福された時と残酷なまでに立場が違う。自分は過去の存在で、もうエマが自分の元には決して戻らないとさとった悲しみなのか、エマの新しい愛人への嫉妬なのか。
パンフレットでケシシュ監督のインタヴューで述べていたような、社会階級の差をアデルがパーティーで見せつけられたからか。もしそうならば、アデルはその階級差を惨めに思ったようには見えませんでした。前のシーンでエマへの未練を「今の相手を私より愛しているのか?」と訴えたアデル。エマは答えられず、今は妥協の愛に身を置いていることを暗示させていました。
アデルが「個人的なもの」として大事にしてきた愛が、エマの社会階級にとってどんなものなのか、個展をみて確信したように思えました。アデルが高校生の時から悩み、肉欲をさらけ出し、孤独に狂い、過ちに悔やみ続けた、そんな未熟ではあるが体当たりで愛に臨んだ姿は、後付けの知性で浮ついた、髪の青くないエマの世界にくらべて、なんとも気高く感じられました。アデルがそれを確信して、思いを振り切れたなら救いです。そして人生の第三章に向うことを願わずにはいられませんでした。
全34件中、21~34件目を表示