「一つの愛に果敢に立ち向かった姿に心うたれました。」アデル、ブルーは熱い色 かぴ腹さんの映画レビュー(感想・評価)
一つの愛に果敢に立ち向かった姿に心うたれました。
寝顔、食べる顔、見つめる顔、アデルの顔が何度もスクリーンいっぱいに映される度に”mignon”という映画の台詞が反芻しました。外国の女優を「美人だ」と思ったことは多々ありますが、「かわいい」と思ったのは初めてです。私は、外国人に、とくに白人に容姿でコンプレックスを植え付けられてきた世代ですが、最近はアジアンビューティのほうが好ましく感じられていました。映画も子供の頃は豪華さ、かっこよさで洋画一辺倒でしたが、日本の俳優のプロポーションも今では外国の俳優と引けをとらず、一方で外国人の「バタ臭さ」が消化できなくなってきて、今では邦画を見ることがほとんどです。そんな折り、世界最先端の「かわいい」文化の日本にいて、「バタ臭い」はずの外国人女優に何度も「かわいい」を心の中で連発するとは自分自身驚きでした。
同性愛については原作ほど主たるテーマになっていませんでした。二人の愛の始まりにときめき、成就に喝采し、破局と孤独に同情し、終局に悲しむ。アデルの若くて未熟な恋愛の過程をハラハラしながら見入ってしまいました。エマが男でも、女でも、多分同じ気持ちで観ていたと思います。ベッドシーンはフランス映画にありがちですが、ちょっと必然性がない場面が多かったかと。美術館とのシーンをシンクロさせることを考えると一回くらいはあってもいいのかもしれませんが。
印象的だったのはアデルがエマに追い出されてから、淡々と教師の仕事をこなす姿と、孤独に打ちひしがれ、感情を抑えきれずにいるシーンが交互に映し出されたところです。教師の仕事をしている彼女の姿は無感情で事務的な印象すらありますが、その生業が孤独な彼女を救っている。皮肉にも、教職はエマに価値を否定されたものでした。片や、エマに伸ばすよう迫られた文才。泣きながら綴った日記は原作ではストーリーそのものとして語られていましたが、この映画の中では一片も読まれません。「あくまで個人的なもの」というアデルの意志が貫かれているかのようでした。
大きく原作と異なるラスト。エマの個展に招待され足を運ぶアデル。そこでかつてアトリエに招き、自分が切り盛りしたパーティーと同じ面々が集っている。アデルは愛想程度の会話を交わすと早々に会場を後にします。その時の彼女の思いはどんなものか、ずっと考えさせられました。昔のパーティーで、エマのパートナーとして周囲から祝福された時と残酷なまでに立場が違う。自分は過去の存在で、もうエマが自分の元には決して戻らないとさとった悲しみなのか、エマの新しい愛人への嫉妬なのか。
パンフレットでケシシュ監督のインタヴューで述べていたような、社会階級の差をアデルがパーティーで見せつけられたからか。もしそうならば、アデルはその階級差を惨めに思ったようには見えませんでした。前のシーンでエマへの未練を「今の相手を私より愛しているのか?」と訴えたアデル。エマは答えられず、今は妥協の愛に身を置いていることを暗示させていました。
アデルが「個人的なもの」として大事にしてきた愛が、エマの社会階級にとってどんなものなのか、個展をみて確信したように思えました。アデルが高校生の時から悩み、肉欲をさらけ出し、孤独に狂い、過ちに悔やみ続けた、そんな未熟ではあるが体当たりで愛に臨んだ姿は、後付けの知性で浮ついた、髪の青くないエマの世界にくらべて、なんとも気高く感じられました。アデルがそれを確信して、思いを振り切れたなら救いです。そして人生の第三章に向うことを願わずにはいられませんでした。