「新しい気づきを得られた」そこのみにて光輝く R41さんの映画レビュー(感想・評価)
新しい気づきを得られた
この作品を通して直接的に感じたことは、恋人でも夫婦でも、親でも子供でも、親友でも崇めるように尊敬する誰かでも、そのすべてを受け止めることなどできるのか? ということだ。
若気の至りで、仮釈放中のタツジ。父の脳梗塞、母の看病、体を売って働く姉、貧しさ。
タツオはパチンコ屋であげたライターの礼ということでタツジの自宅にお邪魔する。そこで見た光景。おそらく、誰でも引いてしまうだろう。
しかし姉のチナツに不思議な感覚を覚えるが、チナツもタツオと同じ心の揺らぎを感じている。
ストーリーそのものは少し前のメロドラマのようだが、この作品が視聴者に「誰かのすべてを受け止めることなどできますか?」という問いかけだと気づいたとき、生まれて初めてそんなことを考えたと思った。
タツオがそれらすべてを受け入れたのは、あの家族が日々感じている絶望に近い生き方と、石切現場で部下を死なせてしまった償いきれない自責の念とが調和するように対比したからだろう。
タツオが抜け殻になった要因はそれほど大きかったのだ。
中島はアウトローだが地元住民を守っている。彼のおかげで地元の活性が守られているが、多少厄介な部分もある。それが諸刃の刃になってオオシロ家に影響している。
中島が絶対悪でないところに現実味があると同時に、この作品の核について考える要素が出るのだろう。
タイトル「そこのみにて光輝く」この意味も多義的で難しい。
表面だけ追えば、タツジは一生あのままで、釈放されればまた中島に似た人物の世話にならざるを得ないのかもしれない。
オオシロの両親も相変わらずで、チナツもそこでしかいられないのかもしれない。
そしてタツオは山でしか仕事ができない。
しかし、
タツオ以外いったい誰がチナツのすべてを受け止めることができるだろうか?
正直に自分自身のことを考えても、誰かをそこまで受け入れることなどできないと思う。自分自身ですら受け入れられない部分があるのだ。でも、犬や猫ならできると思う。
「山へ行く前に、その亡くなった人のお墓参りに行かなきゃね」このチナツの言葉にタツオは大きく揺れ動かされる。タツオの心の闇をチナツも共有しているからこその言葉だろう。
「そこのみにて光輝く」の「そこ」とは、「すべてを受け入れること」なのではないだろうか?
物語は主人公らの再生を邪魔するように中島が介入してくるので若干うざいが、おそらくこれは物語上の都合でしかない。
母のあまりにひどい看護 父の性処理まで手伝わされているチナツ タツジのことで限界を感じ、そして首を絞める決心。慌ててそれを引きはがすタツオ。
海辺に立つ二人に朝日が輝き始めた。
それさえも受け入れるタツオの本心からの輝きが、まるで後光のようにチナツの顔に差し込む。
もし私が子供のすべてを受け入れられるのであれば、私は自分を神だと謳っていいだろう。
いまだかつてそんな考えさえ持てなかった。自分のすべてでさえ受け入れていないからだ。しかし、この作品を見て何か大きな気づきのようなものを得られた。
良い作品だと思う。