家路のレビュー・感想・評価
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松ケンのオーラ。
もうあれから4年経ったのだ。という思いが、先日観たTV特集で
まだまだだ。と思い知らされる。震災の復興は日々着々と進みつつ
あるものの未だ取り残された地区の被災者は苦難を強いられている。
そんな中で観た今作は、よりその住民の生活に沿ったものだった。
是枝監督も絡んでいるドキュメンタリー出身・久保田監督作品なので
その暮らしぶりや風景がそのままこちらに響いてくる。仮設住宅の
狭さや息詰まる会話がそこかしこに感じられ、ここで描かれる日常
から抜け出したくてもどうにもならない歯がゆさと悔しさが伝わる。
が、本作のテーマは震災被害と並行した家族の絆再生物語でもある。
とある事件から20年間姿を消していた次男が突然故郷に帰ってくる。
もう誰も住めなくなった区域の電気もガスもない実家で蝋燭を灯し、
ご飯を炊き畑を耕し田んぼまで作る。彼の目的は何かといえば、
ただそこで暮らしたいということだけ。シンプルな彼の願いに友人は、
「ここで暮らすってことは、ゆっくり自殺するようなもんでないの?」
「どこでどう暮らしたって、人間いつかは死ぬのさ。」と応える次男。
原発の不安を煽ることも掻き消すこともせず、ただシンプルに生きる
ことを訴えるこの描き方は新鮮だった。演じる松ケンがオーラ全開で
腹違いの兄・内野や実母・田中を包み込んでいく豊かな人物像を魅せる。
どんな恐怖や哀しみに見舞われても、人間は生きるために必ず食べる。
蝋燭の下で自作のご飯とおしんこを黙って掻き込みながらの満足顔、
「美味いな。」「美味いべ。」と交わす言葉の温かさと豊かさが胸に残る。
(完全な安全など存在しない世の中だから、せめて家内安全は守ろう)
土着して生きてきた家族と、原発事故
東日本大震災による原発事故で住人が全て避難させられた、福島県で警戒区域に指定された農村で暮らしていたある家族の、事故後の暮らしを見つめる作品。
地元の名士だった夫を支えてきたが仮設住宅暮らしでボケ始めた母、家や田んぼを守って来たが原発事故で気力を失った長男、そんな長男に失望して閉塞感を感じている長男の妻、実家を捨て東京に出ていたが突然に福島に帰ってきた次男、こんな家族の姿を通して、原発事故によって起こった福島の実態も描く。
本作は、小津安二郎が徹底して描いた「日本の家族」とは別の一方にあるそれを描いている。小津安二郎は半世紀前に、戦後、核家族化する世相や都市生活者の家族を描いた。それは一つの「日本の姿」ではあったが、しかし、田舎には半世紀後の現代になっても、両親や親族と生活をともにし、代々の土地に土着し墓を守る人達がいた。その事は、東日本大震災によってクローズアップされた「日本の姿」でもあった。
そんな日本の地方にある家族の姿を、原発事故という背景を通じて描いている。
原発事故の描き方について、監督はインタビューのなかで、「そこに生きている人たちの等身大の部分を、どろどろとしたところを含めて立体的に伝えたいと思った」「最初から反原発や脱原発を訴える映画は作りたくなかった。ただこういう場所ができてしまったのは事実で、いつまたどこが閉ざされた空間になるかわからない」と語っている。
例えば、誰もいなくなった農村には、高圧送電線と鉄塔が背景に映されている。原発や火力発電所で作られた電気は、福島でから遠く東京まで続く、この高圧電線によって送られている。本来は美しい田園風景なのに、無粋な高圧電線と鉄塔のミスマッチ。しかも、原発事故によって田畑は雑草だらけだ。そんな警戒区域の実態を、そのまま映し出す。
仮設住宅で暮らす家族が食べるのは、北海道産の米だ。福島の米農家が北海道の米を食べなくてはいけない現実。
次男は、警戒区域で、汲んだ水飲み、米を炊いて食べる。そんな描写に、観客は少しドキリとさせられてしまう。
長男が「福島の女の子は将来、結婚できるのか?」と妻に問いかけ、妻は「私ら、なんか悪いことしたか?」と返す。
そうした描写の一つ一つが、監督が描きたかった福島の現実ということだろう。多少は過剰な表現もあるが、概ね、たしかに福島で起きていた出来事の一部と言える。
家族が生きていた地域は、原子力と寄り添ってきた街だ。中心街に行けば「原子力、明るい未来のエネルギー」という標語が高らかに掲げられているような地域だ。この標語を作った次男の同級生は、「ここで暮らしていくってどういうことなの? ゆっくり自殺するようなもんじゃないの?」と投げかける。
しかし、次男は、「どうってことない。東京で暮らすのと同じ」「誰もいなくなれば、何もなかったことになる」と返す。
土着して生きてきた一つの家族。その家族に対して原発事故は何を突きつけたのか。そこに込められた監督のメッセージをどう受け取ればいいか、筆者はまだ結論を出せない。
ただ、それを受け取った観客たち一人一人が、考えて行かなければいけないだろう。
人間がいなくなればいい
映画「家路」(久保田直監督)から。
東日本大震災後の福島県を舞台に、今までそこに暮らした
人たちの叫びのようなものが伝わってきた。
故郷をなくす、という感覚は、どんなものなのか、
正直、私には理解できない。
空しさや切なさ、またその原因となった原発事故を恨む感情は、
無い方が不思議なくらいだ、という感覚くらいだ。
事故により何もかも無くした人が、将来を悲観して自殺を図る。
その気持ちを汲んで「放射能の土、(東京へ)捨てってくっぺ」と
トラック一杯の土を積んで、東京へ向かうシーンは心が痛んだ。
今回選んだのは、松山ケンイチ扮する主役・総一と、同級生が
中学校時代の授業を振り返って、会話するシーン。
「社会の授業でさ『自然を守るためには、どうしたらいい?』って
問題出されたの覚えてる?」という質問に対して、
みんながいろいろ答えたにもかかわらず、主人公の総一は、
「人間がいなくなればいい」と答えたらしい。
原発事故でなくなってしまった自然の原風景を懐かしみながら、
「本当になっちゃったな」と苦笑いするシーンは印象に残った。
自分たちで考えたにも関わらず、自分たちでコントロールできない
「原発」というものが暴走したために、自然を守れなかった。
確かに、人間がいなくなれば、自然は守れるかもなぁ。
P.S.(予告編のキャッチコピーから)
最近、家族と食卓を囲んでいますか?
最近、家族と同じ時間を過ごしていますか?
人生に立ち止まったとき、どうしますか?
落ち込んだとき、どうしていますか?
最近、故郷へ帰っていますか?
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