「土着して生きてきた家族と、原発事故」家路 CRAFT BOXさんの映画レビュー(感想・評価)
土着して生きてきた家族と、原発事故
東日本大震災による原発事故で住人が全て避難させられた、福島県で警戒区域に指定された農村で暮らしていたある家族の、事故後の暮らしを見つめる作品。
地元の名士だった夫を支えてきたが仮設住宅暮らしでボケ始めた母、家や田んぼを守って来たが原発事故で気力を失った長男、そんな長男に失望して閉塞感を感じている長男の妻、実家を捨て東京に出ていたが突然に福島に帰ってきた次男、こんな家族の姿を通して、原発事故によって起こった福島の実態も描く。
本作は、小津安二郎が徹底して描いた「日本の家族」とは別の一方にあるそれを描いている。小津安二郎は半世紀前に、戦後、核家族化する世相や都市生活者の家族を描いた。それは一つの「日本の姿」ではあったが、しかし、田舎には半世紀後の現代になっても、両親や親族と生活をともにし、代々の土地に土着し墓を守る人達がいた。その事は、東日本大震災によってクローズアップされた「日本の姿」でもあった。
そんな日本の地方にある家族の姿を、原発事故という背景を通じて描いている。
原発事故の描き方について、監督はインタビューのなかで、「そこに生きている人たちの等身大の部分を、どろどろとしたところを含めて立体的に伝えたいと思った」「最初から反原発や脱原発を訴える映画は作りたくなかった。ただこういう場所ができてしまったのは事実で、いつまたどこが閉ざされた空間になるかわからない」と語っている。
例えば、誰もいなくなった農村には、高圧送電線と鉄塔が背景に映されている。原発や火力発電所で作られた電気は、福島でから遠く東京まで続く、この高圧電線によって送られている。本来は美しい田園風景なのに、無粋な高圧電線と鉄塔のミスマッチ。しかも、原発事故によって田畑は雑草だらけだ。そんな警戒区域の実態を、そのまま映し出す。
仮設住宅で暮らす家族が食べるのは、北海道産の米だ。福島の米農家が北海道の米を食べなくてはいけない現実。
次男は、警戒区域で、汲んだ水飲み、米を炊いて食べる。そんな描写に、観客は少しドキリとさせられてしまう。
長男が「福島の女の子は将来、結婚できるのか?」と妻に問いかけ、妻は「私ら、なんか悪いことしたか?」と返す。
そうした描写の一つ一つが、監督が描きたかった福島の現実ということだろう。多少は過剰な表現もあるが、概ね、たしかに福島で起きていた出来事の一部と言える。
家族が生きていた地域は、原子力と寄り添ってきた街だ。中心街に行けば「原子力、明るい未来のエネルギー」という標語が高らかに掲げられているような地域だ。この標語を作った次男の同級生は、「ここで暮らしていくってどういうことなの? ゆっくり自殺するようなもんじゃないの?」と投げかける。
しかし、次男は、「どうってことない。東京で暮らすのと同じ」「誰もいなくなれば、何もなかったことになる」と返す。
土着して生きてきた一つの家族。その家族に対して原発事故は何を突きつけたのか。そこに込められた監督のメッセージをどう受け取ればいいか、筆者はまだ結論を出せない。
ただ、それを受け取った観客たち一人一人が、考えて行かなければいけないだろう。