家路のレビュー・感想・評価
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ここ(福島)が、家
福島人としてもっと早くに見ておけば良かったと後悔した。
立ち入り禁止区域に指定され、先祖代々暮らしてきた地を追われた家族。
劇中描かれる家族はフィクションだが、その境遇はノンフィクション。
一家族二家族だけじゃない、どれほどの家族が“家”を失った事か。
多くの人たちが今も尚仮設住宅で暮らしている。
雨風しのげ、一通りの生活が出来る。
が、
自分は仕事の最中中を覗いた事があるのだが、その狭さと言ったら!
小綺麗な狭いアパートの一室のような、実際その空間を目の当たりにすると、TVなどで見るよりずっと窮屈に感じる。
家を失い、暮らせる場所があって、贅沢は言えない。
しかし、壁は薄く隣の声は丸聞こえ、部屋数も少なく、同じ家族でもプライベートはほとんど無い。
住んでると言うより押し込められてる、と、住んでる人から生の声を聞いた事がある。
震災や慣れない新生活のストレスから、自殺した人も居る事はニュースでも報じられた事がある。
彼らの二重の苦しみは今この時も続いているのだ。
帰りたい、我が地へ。
そこに線引かれた“立ち入り禁止区域”。
原発事故、放射能漏れ…危険なレッテルを貼られているが、一歩足を踏み入れると、悪いイメージを覆す風景が広がっている。
原発に近い富岡町。自分も実際仕事で行った事があるのだが、海に近く、のどかな自然に囲まれている。
桜並木の夜ノ森公園が有名で、訪れたのが春じゃなかったのが惜しまれる。
確かに今はゴーストタウン。でも本当は、素朴な風景がそこにあったのだ。
それを奪ったのは…
震災は天災。が、そもそも原発事故は…
20年も故郷を離れていた弟が、震災後、立ち入り禁止区域となっている故郷へ。
この心情は分かる気がする。
故郷の現状を知った時、誰だってそこにまず帰りたい、何かしたいと思う筈だ。
震災後、抜け殻状態になった兄。
これも分かる気がする。
仕事も家も何もかも失い、何をどう生きていけばいいのか。
喪失、やるせない怒り、再生、微かな希望…。
フィクションと先に述べたが、登場人物たちの心情もまたノンフィクション。
役者たちの体現、ドキュメンタリー出身の監督の手腕が迫真。
自分は原発事故があった区域から遠く離れた街中に住んでいる。
だから、長々と書いたレビューも結局傍観者としての偽善に過ぎないかもしれない。
でも、あの未曾有の震災をこの身を持って経験したのは事実だ。
福島人として、ほんの少しでも気持ちは同じだ。
震災後、震災を題材にした作品はドキュメンタリーも含め幾つも作られたが、本作は中でも静かに訴える秀作であった。
静かに訴えてくる。
兄弟の事情や妻の仕事等、細かい部分で釈然としない部分は多いが、不思議と穏やかなラスト30分が心に残る。原発問題のみならず家族の在り方を考えさせられる良作。松山ケンイチ、田中裕子、表情で語る役者が皆素晴らしい。控えめな音楽がとてもいい。帰れない田舎の緑が美しい。素晴らしい。
松ケンのオーラ。
もうあれから4年経ったのだ。という思いが、先日観たTV特集で
まだまだだ。と思い知らされる。震災の復興は日々着々と進みつつ
あるものの未だ取り残された地区の被災者は苦難を強いられている。
そんな中で観た今作は、よりその住民の生活に沿ったものだった。
是枝監督も絡んでいるドキュメンタリー出身・久保田監督作品なので
その暮らしぶりや風景がそのままこちらに響いてくる。仮設住宅の
狭さや息詰まる会話がそこかしこに感じられ、ここで描かれる日常
から抜け出したくてもどうにもならない歯がゆさと悔しさが伝わる。
が、本作のテーマは震災被害と並行した家族の絆再生物語でもある。
とある事件から20年間姿を消していた次男が突然故郷に帰ってくる。
もう誰も住めなくなった区域の電気もガスもない実家で蝋燭を灯し、
ご飯を炊き畑を耕し田んぼまで作る。彼の目的は何かといえば、
ただそこで暮らしたいということだけ。シンプルな彼の願いに友人は、
「ここで暮らすってことは、ゆっくり自殺するようなもんでないの?」
「どこでどう暮らしたって、人間いつかは死ぬのさ。」と応える次男。
原発の不安を煽ることも掻き消すこともせず、ただシンプルに生きる
ことを訴えるこの描き方は新鮮だった。演じる松ケンがオーラ全開で
腹違いの兄・内野や実母・田中を包み込んでいく豊かな人物像を魅せる。
どんな恐怖や哀しみに見舞われても、人間は生きるために必ず食べる。
蝋燭の下で自作のご飯とおしんこを黙って掻き込みながらの満足顔、
「美味いな。」「美味いべ。」と交わす言葉の温かさと豊かさが胸に残る。
(完全な安全など存在しない世の中だから、せめて家内安全は守ろう)
土着して生きてきた家族と、原発事故
東日本大震災による原発事故で住人が全て避難させられた、福島県で警戒区域に指定された農村で暮らしていたある家族の、事故後の暮らしを見つめる作品。
地元の名士だった夫を支えてきたが仮設住宅暮らしでボケ始めた母、家や田んぼを守って来たが原発事故で気力を失った長男、そんな長男に失望して閉塞感を感じている長男の妻、実家を捨て東京に出ていたが突然に福島に帰ってきた次男、こんな家族の姿を通して、原発事故によって起こった福島の実態も描く。
本作は、小津安二郎が徹底して描いた「日本の家族」とは別の一方にあるそれを描いている。小津安二郎は半世紀前に、戦後、核家族化する世相や都市生活者の家族を描いた。それは一つの「日本の姿」ではあったが、しかし、田舎には半世紀後の現代になっても、両親や親族と生活をともにし、代々の土地に土着し墓を守る人達がいた。その事は、東日本大震災によってクローズアップされた「日本の姿」でもあった。
そんな日本の地方にある家族の姿を、原発事故という背景を通じて描いている。
原発事故の描き方について、監督はインタビューのなかで、「そこに生きている人たちの等身大の部分を、どろどろとしたところを含めて立体的に伝えたいと思った」「最初から反原発や脱原発を訴える映画は作りたくなかった。ただこういう場所ができてしまったのは事実で、いつまたどこが閉ざされた空間になるかわからない」と語っている。
例えば、誰もいなくなった農村には、高圧送電線と鉄塔が背景に映されている。原発や火力発電所で作られた電気は、福島でから遠く東京まで続く、この高圧電線によって送られている。本来は美しい田園風景なのに、無粋な高圧電線と鉄塔のミスマッチ。しかも、原発事故によって田畑は雑草だらけだ。そんな警戒区域の実態を、そのまま映し出す。
仮設住宅で暮らす家族が食べるのは、北海道産の米だ。福島の米農家が北海道の米を食べなくてはいけない現実。
次男は、警戒区域で、汲んだ水飲み、米を炊いて食べる。そんな描写に、観客は少しドキリとさせられてしまう。
長男が「福島の女の子は将来、結婚できるのか?」と妻に問いかけ、妻は「私ら、なんか悪いことしたか?」と返す。
そうした描写の一つ一つが、監督が描きたかった福島の現実ということだろう。多少は過剰な表現もあるが、概ね、たしかに福島で起きていた出来事の一部と言える。
家族が生きていた地域は、原子力と寄り添ってきた街だ。中心街に行けば「原子力、明るい未来のエネルギー」という標語が高らかに掲げられているような地域だ。この標語を作った次男の同級生は、「ここで暮らしていくってどういうことなの? ゆっくり自殺するようなもんじゃないの?」と投げかける。
しかし、次男は、「どうってことない。東京で暮らすのと同じ」「誰もいなくなれば、何もなかったことになる」と返す。
土着して生きてきた一つの家族。その家族に対して原発事故は何を突きつけたのか。そこに込められた監督のメッセージをどう受け取ればいいか、筆者はまだ結論を出せない。
ただ、それを受け取った観客たち一人一人が、考えて行かなければいけないだろう。
人間がいなくなればいい
映画「家路」(久保田直監督)から。
東日本大震災後の福島県を舞台に、今までそこに暮らした
人たちの叫びのようなものが伝わってきた。
故郷をなくす、という感覚は、どんなものなのか、
正直、私には理解できない。
空しさや切なさ、またその原因となった原発事故を恨む感情は、
無い方が不思議なくらいだ、という感覚くらいだ。
事故により何もかも無くした人が、将来を悲観して自殺を図る。
その気持ちを汲んで「放射能の土、(東京へ)捨てってくっぺ」と
トラック一杯の土を積んで、東京へ向かうシーンは心が痛んだ。
今回選んだのは、松山ケンイチ扮する主役・総一と、同級生が
中学校時代の授業を振り返って、会話するシーン。
「社会の授業でさ『自然を守るためには、どうしたらいい?』って
問題出されたの覚えてる?」という質問に対して、
みんながいろいろ答えたにもかかわらず、主人公の総一は、
「人間がいなくなればいい」と答えたらしい。
原発事故でなくなってしまった自然の原風景を懐かしみながら、
「本当になっちゃったな」と苦笑いするシーンは印象に残った。
自分たちで考えたにも関わらず、自分たちでコントロールできない
「原発」というものが暴走したために、自然を守れなかった。
確かに、人間がいなくなれば、自然は守れるかもなぁ。
P.S.(予告編のキャッチコピーから)
最近、家族と食卓を囲んでいますか?
最近、家族と同じ時間を過ごしていますか?
人生に立ち止まったとき、どうしますか?
落ち込んだとき、どうしていますか?
最近、故郷へ帰っていますか?
家族、友人にも勧めました。
福島原発問題を背景に、家族のあり方、自然との共存等、"人間が生きる"という普遍的なテーマを考えさせる、深い作品。
主演は松山ケンイチ君、今、彼にしか出来ない役。
細部までキャスティングが絶妙。
特に、お母さん役の田中裕子さんが素晴らしい!
この作品を世に送り出したスタッフの勇気に脱帽。
福島は忘れてはならない
311から3年がたちましたが、まだまだ福島の人たちはあの3年前から時間は止まったままです。
胸が痛みます。
せまいプレハブ住宅での暮らし
先が見えない生活
なぜ こんなことになったのか・・・
その中での家族とは、そして生き方とは
色々と考えさせてくれます
みなさん 演技は素晴らしかったですが、田中裕子がとても
いいです。私は昔から彼女のファンですが、お母さん役も
とてもいいです。
家族がいる総ての人、そして家族のいた総ての人に観て欲しい映画
自分の生活圏である故郷の家を或る日いきなり、出なければならなくなった人々の哀しみが、観る人の心に多くの問題を問いかける作品だ。
この映画とは直接関係の無い別の事であるが、私は個人的な体験として福島県ではないけれども、東日本大震災発生後に、震災ボランティアに参加した経験がある。
やはりその体験から感じた事は、被害状況が余りにも大きいので、自分達人間の無力さを痛感した。そしてボランティアである自分は、そこで暮らすわけではないので、そこの土地を離れてしまえば、もう自己の日常からその事は切り離されてしまう。
しかし、現場に住む人々には、正にその土地こそが生きる為の自己の生活圏であるので、そこを簡単に離れる事は出来ない。
しかも、原発事故よる放射能漏洩の被爆問題となると、自己の生命の存続にも影響の有る問題へと発展する。
そんな途方も無く大きな問題をこの「家路」と言う映画は、ドキュメンタリー作品では無く敢えて、ドラマとして、現実に仮設住宅に暮す人々起こり得る問題を描き出していく。
この作品の久保田直監督は、今迄は、普段ドキュメンタリー作品ばかりを製作してきた、ドキュメント専門の監督だと言う彼が、ドラマとして本作を描いているからこそ、更に尚此処の土地に暮している人々の苦悩が静かに伝わってくる。
ガランと人気が無くなってしまった、廃墟と化した村。ゴーストタウンの何処にも、人影は見当たらない。
そして、鳥のさえずりだけが人気の無い村に響いている。
松山ケンイチ演じる次郎、そして長男の総一を演じた内野聖陽、母親を演じた田中裕子そして嫁を演じた安藤サクラ、この一家を演じているみんながまるで本当にこの村にいるように感じられる映画であった。
映画を制作し、上映する為にも多くの電気を必要とする。
21世紀の現在の日本に暮している我々にとり、電気を使用する事の無い生活を営んでいく事は不可能な現実がある事も確か。
そして自然エネルギーの活用が何処まで、現実的な需要と供給のバランスを可能に出来るのかも、一般人である素人に判別出来る問題でもない。
出口の無い、迷路にハマってしまった感じの、問題解決迄に、多くの時間を必要とする問題だ。この大きなテーマを静かに、カメラに納めてくれた監督を初めとしスタッフのみなさん、そしてキャストのみなさんの努力に感謝したい。
映画観賞後、改めてこのレビューを書いていてこの様な映画の存在の大切さを痛感している。
震災から丸3年が経過した今、この作品が完成し、公開された事は本当に意義深い。
そして今後20年30年と月日が経過し、震災を知らない人々が増えていく中で、この作品が出来た事の価値とその素晴らしさが証明される事だろう。
一人でも多くの人に観て頂きたい作品です!
そこに生きている ここで生きていく
松山ケンイチ、田中裕子、内野聖陽、安藤サクラはじめキャスト全員にそこに生きている説得力がある。芝居が上手いとかそんなこととは次元が違うくらいそこに生きている。
物語は淡々と進み「ここで泣いてください」というあざとい演出は一切ない。
しかし、美しい田圃が、清らかな水が、すくすくと育つ苗が、人気のない死んだ町が、穏やかな主人公の表情が、胸にせまる。気づけば泣くこともできないくらいスクリーンの中に入っていた。エンディングテーマのSalyuさんの声で自分の感情が押し寄せてくるまでは…
見終わってからも「ここで生きていく」ことを決めた主人公次郎の終盤の表情がじわじわと心を覆い、せつなく愛しく苦しく問いかける…だからまた見に行こうと思う。
心を揺さぶられないではいられない映画です。
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