春の劇のレビュー・感想・評価
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FIMの赤文字にオリヴェイラの嘲笑を見た
「これは遺物の再現ではなく村人たちの哲学である」というイントロデュースから始まることからもわかるように、本作において村人たちが演じるキリスト受難劇は観客=視線の存在を度外視したクローズドな催しだ。辺境ツーリズム的根性でやってきた野次馬から金銭をせびるわけでもなければ進歩主義の反動としての文化保存事業でもない。あくまで共同体としての心拍数を整えるための年中行事。しかしそこへカメラを向ければ、個々人の営為の範疇を超越したその共同体独自の色彩が自ずと顕現する。 演目はキリスト受難劇なのだから終始シリアスなトーンのはずなのだが、セリフの掛け合いが間延びするわやる気の乏しい若者はいるわ空は青すぎるわで、シュールなコメディがところどころで炸裂していた。イエスの顔を拭いた麻布にイエスの顔の絵が浮かび上がるカットなんかは画面のしょぼさも相まってかなりウケたな。少なからずオリヴェイラもそういうことを狙ってやっているに違いないはずだと邪推しながら最後まで観ていたが、ラストカットでそれが確信に変わった。それまで丹念に積み上げてきたものを一切合切破壊するような、まるで自殺のようなカット。明滅するモノクロの悲惨な映像は読み上げられるセリフとリンクしているようにも思えるが、よくよく考えると意味不明だ。小さな村の演劇と戦争の不条理の間にいかなる結節点があるのか?悪魔の格好をして劇中世界と現実世界を往還するあの男は何者なのか?我々の思考が急速に回り出した瞬間に「FIM」の赤文字が嘲笑のように浮かび上がる。 一歩間違えればしょうもない「夢オチ系」と捉えられかねない(捉える受け手のほうが多数派な気もするが)映画だが、意味や解釈の彼岸へとかくも軽快に跳躍を決めるオリヴェイラの自由さに、今回ばかりは感嘆せざるを得なかった。
ヨーロッパの片田舎に伝わる信仰の深さを見た
川崎市市民ミュージアムの「永遠のオリヴェイラ マノエル・ド・オリヴェイラ監督追悼特集」で2016/09/17に鑑賞。 ポルトガルのクラーニャ村で中世から行われるキリストの受難を描いた民衆劇。劇場を使った劇ではなくて、村の町中や野原を広く使って上演されている。ドキュメンタリー的にその模様を淡々と映しているのではなく、ちゃんとカット割されているし、役者のアップもあるので、映画撮影用に特別に上演したものを撮影したものの様。 初めは上演に備える村人達の様子が淡々と映されるが、井戸の水を汲んでる女性の元へキリストが水を求めに来るところから唐突に演劇が始まる。 キリストを始め、一部の演者のセリフは歌うように語られ、それがみんないい声。きっと村の歌自慢の人なんだろう。 ラストはモノクロになって戦争の悲惨な映像が次々映し出される。普遍的に繰り返される人間の愚行を批判しているのだろう。 眠い、退屈と評価してる人もいるようだけど、自分の場合は聖書の知識は無くても、いや、むしろなかったせいか、映像と物語に惹き込まれて退屈しなかった。
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