「喪われゆくものへの「愛惜」を映像化」ハーメルン パングロスさんの映画レビュー(感想・評価)
喪われゆくものへの「愛惜」を映像化
「愛惜」という言葉、「愛して惜しむ」と読みくだすと一層分かりやすいが、その「愛惜」をそのまま映像にした作品だ。
取り壊しが決まった廃校に住む元校長、坂本長利(1929-2024)。
その学校に保管されていた考古資料を整理しにきた県立博物館の学芸員野田(西島秀俊 1971- )は、この小学校の卒業生。
恩師の綾子先生(風見章子 1921-2016)は、今は病院暮らしで、娘で居酒屋を営むリツコ(倍賞千恵子 1941- )が世話している。
リツコの父、工藤(守田比呂也 1924-2016)は元映画館主で、すでに閉鎖されて考古資料の保管場所になっている映画館で、映写機を修繕して暮らしている。
物語のプロローグは、小学校で上演された人形劇のシーン。
物語の最後に、野田がリツコから校長からの言づてだといって手渡された8mmフィルムを映写して観るシーンが、やはりこの人形劇のシーンだ。
このとき映っていた野田の恩師が若き綾子先生(内田春菊 1959- )。
そして、人形劇の最後に、野田がタイムカプセルのなかに入れて埋めた、綾子先生愛憎のからくり時計が映し出される。
タイムカプセルのことは自分以外の同級生は知らず、本当に埋めたのかどうかも分からなくなりかけていた、あるいは自分の罪を認めたくないためにタイムカプセルのことも覚えてないと言っていた野田は、そこに確かな自分の姿と、からくり時計の存在とを認めたのだった。
ストーリは、たったそれだけ。
だが、最初に、廃校となった木造校舎が映し出された時から、画面に、その学校と、学校を取り囲む風景に対する深い「愛惜」を感じて、その思いの強さにおののいた。
まるで、そこに住み、なお学校の備品を修理する元校長が感じているように、カメラもこの木造校舎への「愛惜」を隠そうとしない。
そして、坂本長利も、西島秀俊も、あまりにも寡黙だが、この滅びゆく校舎を常に「愛惜」の思いで見つめていることが伝わって来る。
音楽も素晴らしい。
ヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」。
パッヘルベルの「カノン」。
誰もが知っている曲も、やはり「愛惜」の思いを倍加させて来る。
エンドクレジットは、劇中でも少し流された武満徹の「小さな空」の、倍賞千恵子による歌唱。
本作公開時81歳とは思えないほどの美しい歌声。
そして、細やかな情感にあふれた感動的な歌唱。
絶唱と言っていい。
この歌を聴きながら、映像を反芻し、涙はとどまることを知らなかった。
*今春亡くなられた坂本長利氏をはじめ、出演者の多くが鬼籍に入られていることから、あえて俳優の生没年を明記しました。
坪川拓史監督が、あえてこの座組で撮ったこと、福島を舞台として東日本大震災の災禍に遭っても、本作を完成させたことの意義を考えると、いっそう感慨が深くなります。