「批判されいるのは誰だ」罪の手ざわり よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
批判されいるのは誰だ
制作・配給にオフィス北野。北野武映画の暴力性を思い起こさせる、観客を戸惑わせるほどの唐突な殺人。登場人物たちの惨めな境遇とその暴力の間に必然を感じ取ることができるかどうか。そこで、この作品に対する見方は分かれてくるのだろう。
罪を犯している人物たちは、持たざる者として、持てる者たちの不正と傲慢さに対して憎悪を燃やしている。そして、それぞれが運命に与えられたとも言えるきっかけを経て、相手を死へと至らしめることになる。
ところで、その殺すという行為を行っているときに、彼ら登場人物が恍惚の表情を浮かべているのだが、それがこの社会の薄気味悪さを物語る。
これは、憤怒の念に駆られた末に殺人を犯してもなお、彼らが後悔ではなく、満足している様子が薄気味悪いのではない。ここで最も薄気味悪いものは何かというと、このような残忍な結末にかかわらず、彼らの行為を心のどこかで、賞賛まではしないまでも、ある程度は是認している我々観客の生きているこの社会である。
この時の観客の姿と、ラストで武侠の芝居をにこやかに見ている街の人々の姿は似て非なるものだ。観客は皆、この現代社会において、凶行に及んだこの人々と同じ立場で社会に憤りを感じていると言えるだろうか。自分も登場人物たちと同じように、格差社会で、騙され、一方的に搾り取られる立場にいると思える者のほうが少数ではないだろうか。多くの観客にとって、映画が批判している社会は、自分たちの生活がそれによってある程度は安定している社会そのものであるはずだ。
物語の中で起きたことは、現代中国という、ある一つの国の、特定の年代に、特有の事件ではない。どこの国にでも起こりうる。とりわけ、一般の人々が、資本の動きを知ることができない社会では、どこでもこのような事件が起きる可能性を孕んでいるのではないだろうか。大きな資本の流れの中では、人はわずかにその飛沫の一粒を得るの精一杯で、それを得るために、元いた場所への帰還が果たせない場所へ流されてしまう。
この作品は、そうした人々の姿を描き続けてきたジャ・ジャンクーの、一つの到達点ではなかろうか。