母の身終い : 映画評論・批評
2013年11月26日更新
2013年11月30日よりシネスイッチ銀座ほかにてロードショー
日常的な行為の反復によって立ち昇る、ひとりの女性の矜持と諦念
夫に先立たれたイベット(エレーヌ・バンサン)は、失業中の48歳の息子アラン(バンサン・ランドン)と同居している。長距離トラックの運転手だった息子は麻薬運搬の罪で服役し、まともな職にも就けず、その苛立ちを理不尽に母にぶつける日々。実は、イベットは重度の脳腫瘍で治癒の見込みはなく、スイスの施設での尊厳死を選択する書類にサインをしている。アランもある日、その事実に気づくが、長年のわだかまりは解消できずに、刻々と時間だけが推移する。
監督のステファヌ・ブリゼは、ことさらに尊厳死や末期医療のテーマを深刻ぶって声高に訴えるようなことはしない。よけいな心理的説明やセンチメンタルな解釈を誘う台詞は極力、避けられ、イベットの料理や洗濯、掃除といった日常的な行為のみが注視される。そして、そのありふれた所作の反復を通じて、末期の眼によってとらえられたひとりの女性の矜持と諦念、さらには寛容と静謐さに満ちた普遍的な感情が画面の奥からゆるやかに立ち昇ってくるのだ。
スイスの尊厳死支援団体の責任者による「あなたの人生は幸せでしたか?」という問いに、「人生は人生ですから」と答えるシーンのイベットの表情が胸に沁み入る。そして、以後、それまでの〈言葉〉を先送りし、沈黙と余白を生かした作劇を断念するかのように、一挙に、アランが手酷い別れ方をした恋人クレメンス(エマニュエル・セニエ)と再会する場面や、抑制されたクライマックスにおいて、忘れがたい感動的な〈告白〉の光景を映し出すのである。
(高崎俊夫)