「「永遠の愛はあるのか」という根源的な問いを理解するには宗教的な理解が必要」トゥ・ザ・ワンダー 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
「永遠の愛はあるのか」という根源的な問いを理解するには宗教的な理解が必要
先ずは、あいや~とため息ひと言。なんたってテレンス・マリック作品だもの。前作の『ツリー・オブ・ライフ』では、難解なため全編爆睡した実績があるため、覚悟して見に行ったら、やはり難解でした。
ただストーリーは至ってシンプルで、普通の男女の出会いと別れを描いた作品なのです。でも、台詞よりも出演者の独白を多くした映像は、まるで映像詩のようです。そして時間軸を無視してカットバックする不連続の進行に参った!のでした。脚本もろくに用意せず自由に演技させたという実験映画に近い手法をとっただけに、当然の成り行きなのかもしれません。
けれどもひたすらいちゃいちゃしまくるカップルののろけぶりも、エマニュエル・ルベツキ(『ツリー・オブ・ライフ』・『ニューワールド』の撮影監督 )が撮影した映像はあまりにも美しく、崇高で荘厳さすら感じさせます。シンプルな愛の物語をここまで芸術的な作品にできるのは、マリックだけといえるかもしれないですね
娯楽色が乏しいからといって、決して駄作ではありません。まだまだマリックを理解するには至っていない自分の芸術的な感性の未熟さを強く感じるものです。そんなオンチな私でも必至に本作を読み解いたのは、マリック監督の前作から引き継ぐ、「永遠の愛はあるのか」という根源的な問い。そのキーワードで、全編を振り返ってみれば、なるほどと思われるシーンに当たりました。
マリック監督の映像は、何気なく語られている陽光を受けて葉を揺らす木々にも哲学が宿っていたわけです。
本編に搭乗するマリーナの愛は、永遠に変わらない情熱をニールに向けていたのです。しかし、後半になると、故郷を遠く離れ、愛する娘とも別居する孤独からか、ヒステリーを起こして、辛く当たるのですね。これには耐えていたニールもツイぶち切れて、やがて別離の日を迎えるのです。この一連のラブストーリーの中には、実はマリック監督の神への思いが投影されているのだなと感じました。
その証拠に、マリーナに見放されたニールは、絶望からかひたすら、主なる神へ愛をひたすら求めるのです。そこに、神の愛を実感したいマリック監督の渇望が潜んでいると感じました。なんて宗教的な劣等感が強い監督でしょうか。宗教的な劣等感とは、信心深い信者であっても、いくら祈っても罪悪感が拭えず、常に潜在意識で自分を追い込む状況にたてさせて、神の救いを待つという心境です。原因は、過去世で救世主を迫害した罪の意識にあるのですが、ちょっとやそっと教会で懺悔したくらいでは自覚もできない、やっかいなコンプレックスなのです。
だからマリック監督が描く『永遠の愛』とは、お釈迦様のように人生の無常を感じてしまったマリック監督が、いつも神様から愛されているという永遠の約束を感じたいという渇望なんですね。祈ったら答えを安直に出して欲しいと渇望するところは、聖書に搭乗してくるヨブに似てきます。しかし、そうやすやすと神様は人生の真理を悟らせてくれません。神様の世界には、そこへ行き着くまでの悟りの階梯というのが厳然としてありますからね。
そんなわけでいつも神様からシカトされているマリック監督は、その鬱憤から、『永遠の愛』が崩れていく物語を作っているわけです。まるで「神は死んだ」と語るニーチェのように。
マリック監督の渇望は、二人の結婚の相談役となるクインターナ神父にも向けられます。離婚が完了していなかった、マリーナは重婚の罪について神父に相談するのです。そんなちょい役にハビエル・バルデムを投入するのも贅沢なことです。しかし、マリック監督は本筋に全く関係ない、クインターナ神父の日常にも触れていきます。教会では真っ当な説教を垂れる神父でも、一度教務を離れると、いかに自分は人を救うことがてきない、悩み多き聖職者なのかと懺悔を続けるのですね。クインターナ神父のなかにも、マリック監督は自らの信仰への疑問を露骨に反映させていたのでした。
そんなわけで、熱心なクリスチャンの方なら、マリック監督の魂の叫びを痛いほど受けとめられる作品だと思います。人間と自然の捉え方にまたしても感嘆させられた作品でした。くどいけど決して駄作ではなく、高尚な芸術作品ですぅ~(:_;)