終戦のエンペラーのレビュー・感想・評価
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アメリカ人監督で、ここまで天皇と日本人の関係を的確に描けるものであろうかと驚きました。
てっきりマッカーサー元帥を主人公にした終戦秘話かと思いきや、彼の軍事秘書官で日本通のボナー・フェラーズ准将が軸になって、フェラーズの視点から日本的精神そのものが説き明かされる展開でした。
物語を進める上で、軸となるフェラーズが背負ったミッションとは、誰が本当の戦争責任者か10日間で糾明すること。そんなフェラーズに立ちはだかったのは、日本的な空気の支配という実に曖昧な意志決定の流れでした。明かに昭和天皇陛下は元首であり、軍の最高責任者であるにも関わらず、その臣下のものたちの聴取を進めていくなかで、いかに昭和天皇陛下は、人民を愛おしみ、平和を愛し、戦争に反対であったかという証言ばかり。一方アメリカ本国では、天皇の戦争責任について、断罪せよという意見が圧倒的ななか、本国の意見どうり天皇を軍事法廷の罪人として出頭させたら日本国内はパニックになるという実際を痛感していたフェラーズは、本国との板挟みになりながらも、天皇の戦争責任回避に向けて、日本人の考え方そのものの理解へと傾いていくのでした。そして、旧知の軍人である鹿島大将が語る「本音と建前を持つ日本人の忠誠心」について、関心を強めていきます。
鹿島が語る「忠誠心の源は信奉で、それを理解すればすべてわかる」との言葉の意味は、掘り下げて解説はされません。けれどもクライマックスのマッカーサーと天皇の対面シーンの一瞬で、その神髄を明かにした演出には感激しました。
証人が口を閉ざしたり、自殺していくという困難が続く中、「天皇陛下に会うしかない」というマッカーサーの判断が下されたのでした。
マッカーサーを前にした陛下は、「全ては朕の不徳にある」と全責任を負う覚悟をお示しになられたでした。そのお言葉のなんと徳高き、汚れなく、無私の心境なのでしょうか。対面しているマッカーサーの表情が、ガラリと変わるのですね。それはフェラーズから報告のあった「信奉」の意味を一瞬で悟ったような表情でした。その後の態度は、彼がその信奉者にすら一瞬でなったことが、観客にも伝わってくるのです。
ハリウッド映画で、アメリカ人監督で、ここまで天皇と日本人の関係を的確に描けるものであろうかと驚きました。邦画ならきっと腰が引けて、お茶を濁してしまうところでしょう。それほどに本作の考察は適切で、説得力があったのです。
ここまでのフェラーズの探索は、いささか体屈に感じる場面もありました。けれども、全てはこの圧倒的に感動する対面シーンに向けた伏線に過ぎなかったわけです。その価値がわかる人にとって本作は、歴史に残る一本となることでしょう。
それにしてもフェラーズの目を通して、愚直なまでに戦前戦中の日本と向き合っている視点は特筆に値します。そんな彼でも日本に着任した当初は、頭で日本を理解しているつもりでしかなかったのです。それはちょうど今のわれわれ日本人の天皇に対する感覚に近いものといえるのではないでしょうか。多くの国民は、戦後の平和憲法のもと、象徴とされた天皇に対して、「信奉」の意味も希薄となり、半ば自ら封印してしまっているのが現状です。
それが本作を見ることで、フェラーズとともに当時の陛下に対する臣下の篤い思いに触れてゆくことになります。きっと、封印してある思いを揺さぶられてしまうことでしょう。
この思いは、戦後長らく『天皇制』とレッテルを張られて、悪しきものとして封印されてきました。けれども日本神道の魂を持つものとして言わせていただければ、高天原を指針として、日本の国体に降ろされている高貴なる徳の力、武士道精神というものは世界に誇れるものなのです。戦後70年たって堕落したといわれている日本人でも、震災で略奪行為がなかったことが世界中で驚きとともに注目されました。それくらい高天原が天皇家を経由して降ろしている日本的精神というものは、心清き、徳高き、誇り高きものなのです。だから、よその国に出かけて略奪したり、慰安婦にしたり、必要以上に人を殺したりする民族ではないのです。そんな悪しきイメージは、原爆や大空襲で民間人を大量に殺戮したことに対する欧米の弁解にしかすぎません。あんなひどいことをした軍国・国粋主義の野蛮人には原爆を落とさざるを得なかったという黄色人種への蔑視しかなかったのです。
いわれなき自虐史観を押しつけられたままでは、先の大東亜戦争で亡くなられた約三百万人の英霊の魂は、不成仏霊として靖国神社を彷徨うしかないのが実情です。脱線が長くなり間は盾が、そうした魂の供養のためにも、国の代表たる総理が参拝に出かけることは意義あることだと思います。
本作は、岡本嗣郎のノンフィクション小説を原作として概ね史実に沿って展開されていますが、その一方でフィクションとして膨らみを与えている部分がなかなか異色なのです。それは、フェラーズの探索を縦軸に置きながらも、横軸にはフェラーズは学生時代に恋仲だった日本人女性アヤとのラブストーリーが綴られること。ハリウッドが得意とする“異国のラブロマンスもの”の興味深い変化形といってもいいでしょう。
アヤの存在によって、フェラーズがどうして日本人の心情に深く立ち入って行こうとしたのか、その原点にあるものが際立ってくるのです。フェラーズとアヤの恋愛シーン自体はベタで型通りのものなのかも知れません。しかし、縦軸のみの歴史の追及劇だけでは、愛するアヤの国・日本を理解しようと必死したフェラーズの思いが伝わってこなかったと思います。ましてや、お堅い歴史再現ドラマにあって、当時人物のラブストーリーが織り込まれながら語られるというのは、観客が感情移入するうえで、うまい演出だと思うのです。
歴史に興味がない人には、本作のような歴史再現ドラマは受け付けがたいかもしれません。何しろ派手なアクションがあるわけではないですしね。でも「ロード・オブ・ザ・リング」3部作でアカデミー賞美術賞を受賞したグラント・メイジャーさんが手がけた美術は、一見の価値はあると思います。丁寧に時代考証を重ねた背景セットは、カメラが引いても、ワイドに当時の状況が描かれていて、本当に凄いのです。特に焼け跡に拡がる荒涼とした風景は、東日本震災の映像も使われているそうです。『少年H』と同様に、本作もまた終戦直後を描くことで、震災に遭った人達に復興の希望を感じて欲しいことが織り込まれている作品でした。
出演者としては、最近亡くなった夏八木勲が演じる宮内次官・関屋貞三郎が、とても印象に残りました。フェラーズから天皇の戦争責任について問われた関屋は、直接的には答えず、天皇が開戦前に詠んだ平和を望む意味の歌を自ら詠むことで、責任はないと伝えようとします。関屋はその場にはいない天皇陛下に向かって一礼し、朗々と詠み上げます。その礼の姿勢は美しく、声は清らかで、聞いているだけで胸が熱くなりました。
もちろんマッカーサー元帥を演じたジョーンズも素晴らしい演技でした。当初似ていないという理由でオファーを頑なに断っていたそうです。でも自分がマッカーサーなんだという信念で押し通した結果、顔は似ていないのにマッカーサーに思えてしまうという力業を画面に見せ付けてくれました。
出番は少ないものの昭和天皇役の片岡孝太郎のなりきり度も凄かったです。陛下を演じるなど畏れ多くて、さぞかし勇気がいったことでしょう。そんな重要な役柄を、対面するジョーンズを圧倒するくらいの気迫で見事に演じきったと思います。このときの場面を彩る音楽も、引きのカメラワークもよかったです。
その他アヤ役に抜擢された初音映莉子も、まるで白百合のような可憐さを見せ付けて、フェラーズの日本に対する思慕の思いを引き立ててくれました。
まあまあ面白かった
印象を選ぶのに考えてしまった。特に何が面白いのか分からない映画だった。日本人として天皇陛下が戦犯にされるなんて冗談じゃないと思って見ていたのだが、それほどそこがスリリングなわけでもなく、淡々と解決していた。玉音放送がレコードの再生だったと分かってびっくりした。それを守ろうと木戸さんが頑張っていたところなど面白かった。
GHQがとても皇室に配慮して占領政策をしていて、皇室の権威は守られていたことも勉強になった。天皇陛下とマッカーサーが会う場面は大変おごそかでよかった。
圧倒的だったのは焼け野原の東京の美術だった。日本を描いているのに日本映画ではあり得ないレベルの表現で素晴らしかった。
感動しました。
この夏観た映画の3つ目。
風立ちぬ、真夏の方程式、終戦のエンペラーと観ました。
ジャンルが全然違うので比べようがないですが、私は「終戦のエンペラー」に一番感動しました。
日本人として、必ず観てほしい作品です。
米国映画なので、恋愛要素が入るのはしょうがないのですが、
その他の当時の日本の描き方が全く異色なく描かれているので
素晴らしいと感じました。
感動したのは、
8月9日の御前会議で天皇陛下が聖断を下したシーンと、マッカーサーとの会話のシーンです。昭和天皇は最後の最後まで平和を望まれていたこと、国民と国家のことを考えていたこと。それがしっかり描かれていて感動しました。
日本の学校教育では、戦争がなぜ起こったのか、戦争はどうして終わったのか教えられません。
教えられることといえば
日本は侵略に侵略を重ね、真珠湾を攻撃し、アメリカの反撃にあい、原発をおとされて降伏した。戦争は悲惨だ、戦争は二度としてはいけない。
くらいでしょう。
歴史認識は人によって大きく異なるので、学校教育の中では、事実のみを扱わざるを得ないのは分かりますが、本当に日本人として知らなければいけないのは、この作品に描かれている昭和の時代の人物史であり、西洋の人間が理解しきれなかった、そして壊すことのできなかった、日本人独特の価値観だと思います。
とにかく、この夏一人でも多くの日本人がこれを観て、過去の日本人が命がけで守ったこの日本のことを思い、終戦の日に「二度と戦争はしない」と感じてほしいと思います。
中立でよくできている
終戦のエンペラーを観てきた。中立的でよくできていた。ネタバレになるかもしれないので見たい人だけ参考にしてもらえれば嬉しいです。
簡単にいうと天皇に戦争責任があるかどうかがこの映画の軸です。それを調べる上で問題になるのはアメリカと日本の価値観やコミュニケーションの仕方の違うこと。だけど、最後はある共通点でわかりあえる瞬間が来ます。
知っていて得するかもしれないのは大きく分けて三つ。
1.歴史的背景
終戦間際、アメリカ側は戦争責任としてエンペラー(天皇)を処刑してピリオドを打つという考えが主流だった。それはイラク戦争とかでもそう。一方で、天皇陛下が戦後各地を巡幸されている最中暗殺されなかったように日本では存続する声の方が強かったと思う。
2.恥の文化vs. 罪の文化
日本のように恥の文化であれば、恥かどうかは他人が決める事なので周囲の反応が大切。これは名誉も同じ。一方でアメリカのように罪の文化であれば自分の行動が正しいかどうか自分に問いかけることになる。どっちの文化がダメってことはなく、人によってはどっちの価値観をもっている。
3.アメリカ独自の倫理観
欧米という言葉があるけどヨーロッパとアメリカでは価値観が違うところがある。これは魔女狩りの話で例えるとわかりやすいかもしれない。ヨーロッパでは魔女かどうか疑われて、当の本人がそうじゃないと否定すれば無罪。アメリカでは逆に否定すると有罪。実際にそうでなくても認めれば更正の余地があるとして無罪。これはピューリタンの価値観でピュア(純粋)であることを重んずるため。
たぶんこの三つを知っているとよりわかりやすくなるかもしれない。基本的に一方の考え方を押し付けたり、ステレオタイプがないようにみえたのでそういう意味では中立的にできていたと思う。
戦争をしない国の誕生
私は戦後生まれだが、父は海軍で母も軍人の娘。子供の頃は戦時中の話をよく聞かされた。田舎の親戚を尋ねると、どこの家でも床の間の鴨居に天皇と皇后の写真(肖像画だったかもしれない)の額が飾ってあったものだ。
物心がついた頃には米軍は撤退した後だったが、駐留軍がいた町には横文字の看板が多く残っていた。母は、女学校のとき英語が禁止されたせいで、今でもすべてのアルファベットを読むことができない。
日本だけではなく、世界がまだ自国を大きくすることに躍起となっていた時代。そのうえ燃料の流入を阻止され、自ら開戦に踏み切った日本。やむを得ない事情もあるが、戦を仕掛けたうえ残虐な行為をしたことも事実。
だからといって、日本という国にとって、誰が善で誰が悪だったなどということはできない。けれども敗戦国として、領土の没収、戦勝国から見た戦犯の処罰は受け入れなければならない。誰かが責任を取らなければ示しがつかないのだ。
そうしてアメリカから日本に送られてきたのがサングラスにコーン・パイプのマッカーサー元帥だ。
日本は他国に例がない世界で最長の君主国家だ。戦後、天皇は国民の象徴という立場になったが、その地位は世襲で受け継がれていく。
この作品は、アメリカ主導の戦後処理に於いて、日本国民の“よすが”である天皇の処遇をどうすべきか、その判断に費やされた10日間を追ったものだ。
話の上では、調査を命じられたアメリカの将校による、日本人女性との恋の回想の絡め方がやや強引だ。ただ、マッカーサーが決して日本を潰しに来たのではないという、彼の心のなかにあるものを推察するための間接的な表現と見ることもできる。
今の日本があるのは、マッカーサーの決断が大きい。戦勝国による領土没収もなく、日本は焼け野原から立ち上がり、 世界第二位(現在は三位)の国にまで成長した。そもそも敵国どうしだった日米が友好国になるなどと、だれが想像しただろうか。
マッカーサーと昭和天皇の会見では、天皇の言葉に胃がぎゅっとしめつけられた。
日本は来月15日で68年間、他国との戦争はもちろん、内戦もない。この作品が描いた日本、戦争をしない国が生まれた原点がそこにある。
第二次世界大戦以降、一度も戦争をしていない国は世界でも一桁しかない。アジアでは日本とブータンだけだ。どうか、戦争をしない国のことはそっとしておいてほしいものだ。
面白かった
非常に良くできてます。できれば太陽も観といた方が良いかも。
今の日本人には当時の感覚が理解できないのでそのまま観ると謎が残るかも?
こちらは裕仁天皇の周りの人々を通して終戦を観るという感じで、太陽は裕仁天皇から終戦を観るといった感じです。
真実よりも心を求めて
第二次世界大戦が終戦し日本はアメリカ合衆国の統治下。ダグラス・マッカーサー元帥は、知日家のボナー・フェラーズ准将に、昭和天皇に戦争責任はあるか調査するよう命じる、フェラーズは恋人の初音映莉子が、アメリカの空襲で帰らぬ人となったことを知る切なくて純愛を戦争が引き裂かれた。開戦を決断したのは誰なのか不明であると結論付ける。昭和天皇は、戦争責任はすべて自分にあり、処断は自分ひとりが負うべきである新たなアメリカの視点から描かれた戦争映画主人公が本当に知りたかったのは恋人を奪った戦争の真実かもしれない
今、明かされる衝撃の真実なんて無かったぞ
太平洋戦争の戦後処理におけるマッカーサーと日本のやりとりという崇高な史実にちゃらけた架空のラブストーリーをくっつけた全くの駄作。
「今、明かされる衝撃の真実 」なんて一つもありません。日本人ならみんな知ってます。
それより嘘を描いたらはいけません。
史実ではフェラーズ准将が日本で面会したのは河井道という女性。
この映画を観て得られるものはただ1つ。
... 一句の短歌。
「四方の海、皆同胞(はらから)と思う代に、など荒波の立ち騒ぐらむ」
明治天皇が日露戦争の開戦か否かの御前会議で発した言葉がこの短歌。
昭和天皇も太平洋戦争の開戦か否かの御前会議で同じ短歌を2度読んだという。
天皇陛下が御前会議で言葉を発したのはたったこの2回のみとの事。
昭和天皇がこの短歌を詠んだ事、河井道が「天皇が処刑されたら私も死ぬ」とフェラーズ准将に言った事、天皇陛下が「戦争の責任は天皇一人にあって国民には無い」とあえて命乞いをしたかった事をマッカーサーが大いに気に入った事、この3つが天皇に戦争責任は無いという結論になった理由らしい。
それより私が興味があるのはフェラーズ准将がその後大佐に降格とマッカーサーが更迭された事です。
毎年夏に公開される戦争映画の中でも、本作は良い出来の映画だと思った
日本の近現代史に弱い私は、戦争責任が本当には誰に有ったのか?それについては正直なところ、学校でどう習ったのか、記憶が不明瞭だ。そしてその後も、詳しく勉強をした訳ではない。日本人で有りながら、お恥ずかしいが、この問題をよく知らないのだ。
しかし、この映画では、その重大問題を早急に究明せよと、当時日本を統治していたGHQの最高責任者ダグラス・マッカーサー元帥が、ボナー・フェラーズ准将に調査を依頼し、その調査のプロセスをこの映画は、追って描いている。
しかし、本作品は今迄描かれて来た、他の戦争映画と比較すると、珍しい程に日本に対して好意的な描き方をしてくれていた様に記憶する。
この夏ヒットしている、「風立ちぬ」の、あの宮崎監督も、従軍慰安婦問題について発言をされ、日本軍はアジアを侵略し、極悪非道の限りを尽くしたと、あの戦争を非難する人達が日本国内に現在も、多数存在する。しかし、当時の日本は海外の国から、石油資源の供給が出来無くなり苦渋の選択の末に戦争に突入したのではなかったのだろうか?
そして、この映画の中で西田敏行が演じていた鹿島大将の発言だったと思うが、日本の国民皆誰もが、戦争熱に浮かれ過ぎていたと言う、発言をしていたが、恐らくそれも当時の本当の日本の姿であったのではないだろうか?と私は考える。
私が好きな映画で「愛を読むひと」と言う作品があるが、その映画のハンナの裁判で語られる様に、現在の平和な現代の善悪の価値基準のみで戦争当時の狂乱していた時代を一事で、非難する事は出来ないと言う考え方に共感し、以来その考え方は正論だと考えるのだ。
「終戦のエンペラー」が描く当時の日本は、政治家と肥大化した軍部の力に因って、開戦したとしても、マスコミのプロパガンダに因って、国民が戦争一色になっていたのは確かな事だ。そして国民は、その様に生きなければ、憲兵に追われるので、軍国主義に染まる生き方の選択の他には、自己の命を守る術が無かったのも事実だろう。
戦争は一端始まると、中々止める事は出来ない上に、予想出来ない様な甚大な戦禍を後に残す。そして戦争を体験した人々はその後の人生を生きている限り、その傷を負い続ける。日本では、原爆投下により、被爆した人々にとっては、2世3世とその被害も続くのだ。
この映画が描いている様に戦争は、米兵のボナーの人生にも大きな影を落としていく。戦争の有る時代を生きる人々にとっては、皆それぞれが、加害者と被害者と言う2面性を持って生きなければ成らなかったのではないだろうか?その事がこの作品を観ていると一番に伝わって来る様に思う。
責任問題を追及する事は重要事項の一つでは有るだろうが、過去をやり直す事は不可能だ。死んだ人の人生を復元する事は不可能だ。
それよりも今後の平和な社会を生きる選択をしていく事にフォーカスする事の方が、遥かに意味が有ると私は個人的に信じている。何しろ人類の歴史は、戦争の歴史でも有る。
本作品に於いても、昭和天皇は、直接的な政治決定権を持っていなかった為に、戦争を先導する権限が無かったと言う事で、話を結んでいる。
しかし、この映画で改めてロケセットではあるけれど、焼け野原になった東京の町を観ると、良く現在の様に僅か70年足らずで復興したものだと、驚かされる。これは明らかに戦争を生き残り、戦災を乗り越えて生きて来た、一般人である国民の一人一人が、いかに戦後勤勉に生きて来たかの証を観たように思う。
夏になると必ず、毎年上映されるのが戦争映画だが、戦争映画を観る事で、私達は、戦争を繰り返さない様、平和で前向きに生きる選択をする事が必要なのではないだろうか?そんな感想を私はこの作品から得たのだ。
何時の時代も人の心の中には、善と悪の2面性が潜んでいる。日頃から自分の生き方を精査し、悔いの無い生き方を選択する事が最も大切な事で有るように思う。
この作品でも、テーマとしては、個人の良心が問われていたように、結論的には思うのだが、あなたはこの作品をどの様にお考えになるだろうか?
昭和天皇の戦争責任について考えさせられた
占領軍最高司令官のマッカーサーは、太平洋戦争開始の最高責任者は誰だかよく分からないが戦争を停止したのは間違いなく昭和天皇であると考え、自己の政治的野望実現のために、多くの連合国側の発した天皇処刑論を退けて東京裁判の戦犯リストから外すことになった、という構想の映画でした。戦後の民主主義の歴史を考えさせてくれるきっかけの一つにはなると思います。敗戦翌年生まれの年代には、神格化された当時の天皇中心の一億玉砕体制が今の北朝鮮のあり方に重なって見えます。
わかっているのに感動してしまいました。たぶん外国人が見るより日本人が見た方が面白いと思う。
たぶん日本人なら誰でも知っているであろうあのことを描きたいのだろうな、と思って見に行きましたが予想どおりでした。
この辺の歴史はいろんな映画やドラマで見ているので、だいたいのことはわかっていましたが、アメリカ人の視点で描いているので、そのことが新鮮で面白かった。
よくあるへんてこりんな日本や日本人は出てこないし、映像はお金がかかっている分、日本映画以上かもしれません。
例えるなら、外国人が日本語で、日本の名曲を歌う「のど自慢大会」のようです。
日本人なら誰でも知っている歌なのだけれども、日本語のうまさと歌のうまさに加えて、日本愛みたいなものが伝わってきて、日本人が歌う以上に感動するような感じです。(完璧に歌うよりも、ちょっと発音がおかしい方がいいみたいな・・・)
最後のシーンもわかりきっているのにやっぱり感動してしまいました。
この映画は外国人が見るより、日本人が見る方が面白いと思う。
でも、こういう映画を見るといつも思うのだけれども、あの戦争で当時の日本は、部分部分は別にして、大筋で有罪だったのか?ということです。
要領が悪くて、かしこく立ち回れなかったのは確かだけれども、大筋で有罪だったかどうかはかなり怪しい。(すべての事実を把握して、完全に客観的に、普遍的かつ不変的に判断するのは不可能。)
大河ドラマの「八重の桜」なんか見てると、幕末の会津藩は、戦前、戦中の日本にちょっと似ているような気がする。
事実はわからないけど、結局、勝てば官軍、負ければ賊軍ということで、これに天皇陛下は関係ないような気がしました。
日米同盟の始まり。
毎年8月頃になるとこの手の戦争ものが出てきますが、こう言う視点での話は初めてではないでしょうか。実語を下にしたフィクションです。
“アヤ”と言うのは架空の人物ですが、河井道と言う女性と一色ゆりと言う女性をモデルにしているようです。フェラーズが大学で会ったと言う件は一色ゆりですし、自身がクリスチャンであると言うところは河井道に該当します。
その他の、主人公ボナー・フェラーズ以下、マッカーサー、昭和天皇、木戸幸一、関谷貞三郎、近衛文麿、東條英機は実在の人物。見た目は若干微妙な所はありますがね。
物語に戻ります。フェラーズは、大学で留学生のアヤと出会うわけですが、既に当時のフェラーズは大佐の階級であり、他方のアヤは一留学生であるわけですから、10数歳、20歳弱の年齢差が有るわけです。それが相思相愛の形になるのは、中々興味深い所ではあります。純愛っぽいですけど。
一応、日米双方の視点で歴史考証はしているようですが、若干微妙。宮内次官と言う設定の関谷貞三郎ですが、終戦時には貴族院議員で、宮内次官は退任していたはず。あと、皇宮警察がフェラーズに抵抗するシーンは、あれは??? 警察なので、軍とは違いますが、あそこまで抵抗は出来なかったのではないかと思いますけど?
ところで、関谷貞三郎ですが、この映画のプロデューサー奈良橋陽子の祖父だそうです。奈良橋の息子野村祐人も本作品の共同プロデューサーを務めていて、「家族の話でもある」と奈良橋自身が語っています。そういうのって、珍しいですね。
日本人から見ると、若干「?」と思うところがないわけではないですが、ひと昔前の日本の描かれ方に比べれば雲泥の差。プロデューサーを奈良橋陽子が務めている(日本人が務めている)と言う事も、無関係では無いと思います。
アヤとフェラーズの関係も気になりますが、それはあくまでもサイドストーリー。昭和天皇の戦争責任が、どのように回避されたのかと言うのが、この作品の主眼です。そういういう意味では、中々、興味深いです。逆に言うと、日本というのは、やっぱり欧米人には理解不能であるということも、良く解りました。
あ、宇宙人ジョーンズは、このころから日本で監視に付いていたんですね(笑)。
ずいぶんと日本、日本人にやさしく描いている
某日、松竹試写室で鑑賞。
宇宙人ジョーンズがマッカーサーを、歌舞伎女形の片岡孝太郎が昭和天皇をそれぞれ演じ、彼らを真ん中に据え、それなりに緊迫感と、「日本に民主主義と終戦(平和)をもたらしたのはアメリカだぜ!」的な上から目線と偏見、さらにハリウッド的勘違いも随所にみられるような映画、と思っていたが、尺も1時間40分あまりであっさりとした内容であった。
そして、ずいぶんと日本にシンパシーを持って制作してくれた映画と受け取られた。
これって、ジャパン(サントリー)マネーをたっぷりと手にしているT・L・ジョーンズが影響している? なんて思ったりもしたが、ジョーンズも淡々とまじめに、歴史上の人物を演じていて納得の作品である。
ドラマとしては、実在した米国人准将と日本人女性との悲恋が歴史的事実とは別に軸となっており、それが物語を膨らませている。エンターテインメントなんだからそれはそれでOKだろう。
日本人俳優は、西田敏行、伊武雅人、中村雅俊、夏八木勲といった有名どころがしっかりとした芝居をしてくれており、これも納得。
プレス(報道資料)によると、皇居でのロケもしているのだとか。二重橋前とか撮影協力したってことなのか…。
まあ、昭和天皇の戦争終結への思いをあそこまで肯定的に描く内容なら、宮内庁もOKしたのもわかる…。
評者は、昭和40年代の物心ついたころから、母親に「日本は戦争に負けてよかった。戦前の天皇制が続いていたら大変なことになった…」という呪詛のようなつぶやきをずっと聞かされて育った。
母親がそうした共産党シンパのような人間だったので、長らく、反皇室、反体制的な考えを持っていた。
しかし、社会に出て、20年以上たつと、そんな考えもずいぶん薄れてしまった。
この映画でも描かれているとおり、「先の大戦」を終結したのは昭和天皇の存在が極めて大きかったという考えに今は首肯するものである。
そうした視点からこの作品を見ても、日本にとってはありがたい内容のような気がする。
日本が大戦中に行った侵略行為も、それは欧米列強のフォロアーでしかなかった、という点が近衛文麿の言葉ではあるが、訴えられているのだから…。
昭和史に関心がなくても、日本に生きている人間なら「見ておくべき作品」と言っておきたい。
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