「アメリカ人監督で、ここまで天皇と日本人の関係を的確に描けるものであろうかと驚きました。」終戦のエンペラー 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
アメリカ人監督で、ここまで天皇と日本人の関係を的確に描けるものであろうかと驚きました。
てっきりマッカーサー元帥を主人公にした終戦秘話かと思いきや、彼の軍事秘書官で日本通のボナー・フェラーズ准将が軸になって、フェラーズの視点から日本的精神そのものが説き明かされる展開でした。
物語を進める上で、軸となるフェラーズが背負ったミッションとは、誰が本当の戦争責任者か10日間で糾明すること。そんなフェラーズに立ちはだかったのは、日本的な空気の支配という実に曖昧な意志決定の流れでした。明かに昭和天皇陛下は元首であり、軍の最高責任者であるにも関わらず、その臣下のものたちの聴取を進めていくなかで、いかに昭和天皇陛下は、人民を愛おしみ、平和を愛し、戦争に反対であったかという証言ばかり。一方アメリカ本国では、天皇の戦争責任について、断罪せよという意見が圧倒的ななか、本国の意見どうり天皇を軍事法廷の罪人として出頭させたら日本国内はパニックになるという実際を痛感していたフェラーズは、本国との板挟みになりながらも、天皇の戦争責任回避に向けて、日本人の考え方そのものの理解へと傾いていくのでした。そして、旧知の軍人である鹿島大将が語る「本音と建前を持つ日本人の忠誠心」について、関心を強めていきます。
鹿島が語る「忠誠心の源は信奉で、それを理解すればすべてわかる」との言葉の意味は、掘り下げて解説はされません。けれどもクライマックスのマッカーサーと天皇の対面シーンの一瞬で、その神髄を明かにした演出には感激しました。
証人が口を閉ざしたり、自殺していくという困難が続く中、「天皇陛下に会うしかない」というマッカーサーの判断が下されたのでした。
マッカーサーを前にした陛下は、「全ては朕の不徳にある」と全責任を負う覚悟をお示しになられたでした。そのお言葉のなんと徳高き、汚れなく、無私の心境なのでしょうか。対面しているマッカーサーの表情が、ガラリと変わるのですね。それはフェラーズから報告のあった「信奉」の意味を一瞬で悟ったような表情でした。その後の態度は、彼がその信奉者にすら一瞬でなったことが、観客にも伝わってくるのです。
ハリウッド映画で、アメリカ人監督で、ここまで天皇と日本人の関係を的確に描けるものであろうかと驚きました。邦画ならきっと腰が引けて、お茶を濁してしまうところでしょう。それほどに本作の考察は適切で、説得力があったのです。
ここまでのフェラーズの探索は、いささか体屈に感じる場面もありました。けれども、全てはこの圧倒的に感動する対面シーンに向けた伏線に過ぎなかったわけです。その価値がわかる人にとって本作は、歴史に残る一本となることでしょう。
それにしてもフェラーズの目を通して、愚直なまでに戦前戦中の日本と向き合っている視点は特筆に値します。そんな彼でも日本に着任した当初は、頭で日本を理解しているつもりでしかなかったのです。それはちょうど今のわれわれ日本人の天皇に対する感覚に近いものといえるのではないでしょうか。多くの国民は、戦後の平和憲法のもと、象徴とされた天皇に対して、「信奉」の意味も希薄となり、半ば自ら封印してしまっているのが現状です。
それが本作を見ることで、フェラーズとともに当時の陛下に対する臣下の篤い思いに触れてゆくことになります。きっと、封印してある思いを揺さぶられてしまうことでしょう。
この思いは、戦後長らく『天皇制』とレッテルを張られて、悪しきものとして封印されてきました。けれども日本神道の魂を持つものとして言わせていただければ、高天原を指針として、日本の国体に降ろされている高貴なる徳の力、武士道精神というものは世界に誇れるものなのです。戦後70年たって堕落したといわれている日本人でも、震災で略奪行為がなかったことが世界中で驚きとともに注目されました。それくらい高天原が天皇家を経由して降ろしている日本的精神というものは、心清き、徳高き、誇り高きものなのです。だから、よその国に出かけて略奪したり、慰安婦にしたり、必要以上に人を殺したりする民族ではないのです。そんな悪しきイメージは、原爆や大空襲で民間人を大量に殺戮したことに対する欧米の弁解にしかすぎません。あんなひどいことをした軍国・国粋主義の野蛮人には原爆を落とさざるを得なかったという黄色人種への蔑視しかなかったのです。
いわれなき自虐史観を押しつけられたままでは、先の大東亜戦争で亡くなられた約三百万人の英霊の魂は、不成仏霊として靖国神社を彷徨うしかないのが実情です。脱線が長くなり間は盾が、そうした魂の供養のためにも、国の代表たる総理が参拝に出かけることは意義あることだと思います。
本作は、岡本嗣郎のノンフィクション小説を原作として概ね史実に沿って展開されていますが、その一方でフィクションとして膨らみを与えている部分がなかなか異色なのです。それは、フェラーズの探索を縦軸に置きながらも、横軸にはフェラーズは学生時代に恋仲だった日本人女性アヤとのラブストーリーが綴られること。ハリウッドが得意とする“異国のラブロマンスもの”の興味深い変化形といってもいいでしょう。
アヤの存在によって、フェラーズがどうして日本人の心情に深く立ち入って行こうとしたのか、その原点にあるものが際立ってくるのです。フェラーズとアヤの恋愛シーン自体はベタで型通りのものなのかも知れません。しかし、縦軸のみの歴史の追及劇だけでは、愛するアヤの国・日本を理解しようと必死したフェラーズの思いが伝わってこなかったと思います。ましてや、お堅い歴史再現ドラマにあって、当時人物のラブストーリーが織り込まれながら語られるというのは、観客が感情移入するうえで、うまい演出だと思うのです。
歴史に興味がない人には、本作のような歴史再現ドラマは受け付けがたいかもしれません。何しろ派手なアクションがあるわけではないですしね。でも「ロード・オブ・ザ・リング」3部作でアカデミー賞美術賞を受賞したグラント・メイジャーさんが手がけた美術は、一見の価値はあると思います。丁寧に時代考証を重ねた背景セットは、カメラが引いても、ワイドに当時の状況が描かれていて、本当に凄いのです。特に焼け跡に拡がる荒涼とした風景は、東日本震災の映像も使われているそうです。『少年H』と同様に、本作もまた終戦直後を描くことで、震災に遭った人達に復興の希望を感じて欲しいことが織り込まれている作品でした。
出演者としては、最近亡くなった夏八木勲が演じる宮内次官・関屋貞三郎が、とても印象に残りました。フェラーズから天皇の戦争責任について問われた関屋は、直接的には答えず、天皇が開戦前に詠んだ平和を望む意味の歌を自ら詠むことで、責任はないと伝えようとします。関屋はその場にはいない天皇陛下に向かって一礼し、朗々と詠み上げます。その礼の姿勢は美しく、声は清らかで、聞いているだけで胸が熱くなりました。
もちろんマッカーサー元帥を演じたジョーンズも素晴らしい演技でした。当初似ていないという理由でオファーを頑なに断っていたそうです。でも自分がマッカーサーなんだという信念で押し通した結果、顔は似ていないのにマッカーサーに思えてしまうという力業を画面に見せ付けてくれました。
出番は少ないものの昭和天皇役の片岡孝太郎のなりきり度も凄かったです。陛下を演じるなど畏れ多くて、さぞかし勇気がいったことでしょう。そんな重要な役柄を、対面するジョーンズを圧倒するくらいの気迫で見事に演じきったと思います。このときの場面を彩る音楽も、引きのカメラワークもよかったです。
その他アヤ役に抜擢された初音映莉子も、まるで白百合のような可憐さを見せ付けて、フェラーズの日本に対する思慕の思いを引き立ててくれました。