劇場公開日 2015年7月11日

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「命の輪郭を映しとる」サイの季節 ユキト@アマミヤさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0命の輪郭を映しとる

2015年9月11日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

これは久々に手強い作品と出会ったものだと、観終わって、改めてちょっと身構えてしまいました。
本作は実話ベースです。しかし、ドキュメンタリータッチでは描かれておりません。現代アートのような映像表現も含みながらの、ストーリー展開、人物描写、さらにはイランでのイスラム革命の予備知識がないと、僕のようなボンクラな理解力じゃあ、とてもじゃないが付いていけません。自分の頭とハートで納得できるようになるには、何回も観直す必要のある作品だとおもいました。
主人公のクルド系イラン人の詩人、サヘル(ベヘルーズ・ヴォスギー)は、革命政府から「神を冒涜する、くだらん詩を書いた」として検挙され、投獄されてしまいます。彼の妻ミナ(モニカ・ベルッチ)も投獄され、二人は離ればなれとなってしまいます。
本作でのキーパーソンとなるのが、アクバル(ユルマズ・エルドガン)という男。彼は詩人の妻、ミナのことを密かに慕い続けておりました。
革命前、ミナは王制下、軍司令官の娘として裕福な家で育ちました。アクバルはその司令官邸宅の運転手であり、下っ端の使用人だったのです。しかし、革命によって、まさに天地がひっくり返りました。
昨日まで、偉い人たちに平身低頭していたアクバル。それが、革命がおこった今では、支配する側に立場が逆転。今は権力を手に入れ、ついには自分の長年の想いを果たそうとします。実は、詩人サヘルと妻ミナを引き裂いたのは、アクバルの仕業でありました。サヘルを既に死んだものとして「処理」し、ミナを監獄の中で自分の思うまま凌辱してしまいます。ミナは獄中で望まない妊娠をし、二人の子供を出産します。
さて、永い、長い、獄中生活30年を経て、詩人サヘルはついに釈放。彼は、なによりもまず、最愛の妻、ミナの行方を捜します。あらゆるツテを頼りに、彼がたどり着いた先は、トルコのイスタンブール。
ここはヨーロッパへ渡る難民たちの中継地となっています。サヘルはここで二人の若い女性と出会います。彼女たちも難民らしい。ヨーロッパへ向かう旅費を稼ぐため、止むを得ず、女である自分の身体を売る、いわゆる「街の女」になっております。もとより、自暴自棄になっていたサヘルは、この女に誘われるまま、体を寄り添わせるのですが、実は彼女こそ、自分の妻ミナの……。
「サイの季節」とは、かつてサヘルが書いた詩の言葉です。彼の書いた詩は、本作中で、幾度か朗読されます。それはどこか、日本の詩吟、または浄瑠璃の悲恋物語を思わせる、体の奥底からこみ上げてくる詠嘆として詠われています。
「サイは土を食み、遠くへ吐き出す」
生まれた故郷を追われ、国を捨て、放浪する人々。詩人サヘルも、その群衆の中の一人であることはまぎれもないのです。彼らは自分の体と魂をつくった故郷の土を、一体どの土地で吐き出すことになるのでしょう?
本作では、重要なキーパーソンであるところの、アクバルの人物像について、あまり多くの説明をしておりませんので、作品の流れの中で短時間で理解するにはやや無理があると感じました。
映像に関しては、アート感覚あふれるアプローチがなされております。
映画ならではの広大な風景、ロケーション。それを絵の額縁のように利用しながら、画面の半分に、クローズアップした人物を配置。これを一つの様式のように多用します。そこに演技は必要ありません。ただ、ただ、一人の俳優の存在感、質感、肉感、そういうモノをキャメラに捉えようとします。それはベヘルーズ・ヴォスギーというイラン人俳優(ちなみに彼も革命後亡命)その人の存在感に監督が惚れ込んでいるからなのでしょう。
この絵作りを見ながら、ノーベル賞作家、ヘミングウェイの晩年の肖像写真を思い出しました。顔の一つ一つのシワ、ザラついた肌の質感。口元から顎をふちどる白い髭。その一本一本がもつ存在感。まるで小説「老人と海」の主人公、ちっぽけな小舟で、巨大なカジキを釣りあげる、あの老人を彷彿とさせるヘミングウェイ。その写真の手法を本作で持ち込んだかのようです。
他にも、監獄の柱に縛り付けられたサヘルのシーン。そこに降り注ぐ大粒の雨。と思ったら、それはなんと小さな亀。亀が雨のように降ってくる。このシーンは何を意味するのだろう?
地面にひっくり返った亀が映ります。でも、その亀は必死で起き上がろうとする。キャメラはその亀の姿を地面すれすれの目線で捉えます。
また、本作の序盤で登場する、横たわる巨木のシーン。まるで、樹齢千年を超える屋久杉のような巨木が横たわっている。それだけで圧倒的な存在感があります。
そういうロケーションを大切に描く、絵として切り取る感覚は、ギリシャの故アンゲロブロス監督作品に通底するようなところも感じられます。
本作を観て、ふとジュルジュ・ルオーの「避難する人たち」という絵画を思い出しました。
人々はいつも、なんらかの理由で、避難を強いられている。それは決して革命や戦争といったことだけではないでしょう。
弱い人たちは、いつでも避難を強いられる。
その象徴的な例がニッポンの原発事故。それによって否応無く「故郷」を追われた人々。
更には、最近問題になっている貧困の連鎖。それによる子供達の漂流。先進国と呼ばれる日本国内で、実はいま、静かに、世の底辺で「難民」にさせられている人たちがいる。
あの、深夜の商店街を、あてもなくさまよい、その後失われた二人の子供たちの命。
あの監視カメラに映った「ぼやけた子供達の姿」こそが、象徴的な「ニッポンの避難」そして「ニッポンの命の軽さ」そして「命の輪郭がぼやけている」という「風景」ではなかったでしょうか?
ルオーはご承知の通り、20世紀最高の宗教画家と呼ばれています。その骨太の輪郭が形作る、人物像。そこには人間の尊厳を見つめるような、画家の視点があります。僕はそのルオーの筆使いそのものに、どこか「聖なるもの」を感じ、心が静かになるような気がするのです。
本作「サイの季節」をネットで調べると、監督であるバフマン・ゴバディ氏自身も、生まれ故郷イランを去り、現在も国外亡命中であるとのことです。
また、婚約者がイラン政府からスパイ容疑で逮捕され、8年間拘束されていたという情報もあります。
そのような監督自身の境遇を踏まえ、本作の方向性として、イランでの革命の際、実際に起こった、不幸な人間ドラマとして描くのか? それとも現代アート的な表現技法へ軸足を置くのか、はたまた、民衆を決して幸せにしない国家や宗教への痛烈な批判を描くのか?
もちろん、監督自身はこれらを全て融合させ、作品として仕上げようとしていることは疑いようもありません。ただ、そのブレンドのさじ加減については、好き嫌いの分かれるところでしょう。
監督自身が、難民であり、故郷に戻れない境遇で描かれた本作。
バフマン・ゴバディ監督については、抜きん出た映像感覚の持ち主であることはまちがいなく、アート系の映画がお好きな方にはいいかもです。

ユキト@アマミヤ