「お涙頂戴だけではいけない。」くちづけ eigakabosuさんの映画レビュー(感想・評価)
お涙頂戴だけではいけない。
舞台から作られた映画と言うだけあって、舞台を意識した作りになっています。私は舞台にあまり馴染みがないので新鮮でした。
途中、多少説明的になります。はっきりとしたテーマを掲げられ問題提起されるので、教材のように感じる部分があります。
物凄く明快に訴えかけてきます。
ところで、私は「泣ける」と言う触れ込みが好きではありません。
殊現実的で深刻な事柄に関しては、美談のように脚色した作品を、私達観客は無責任に涙して、「ああ、よく泣いた。」等と当事者の心情に想いを馳せることなく、見世物として楽しむだけではいけないのです。
障害者や病気は、「お涙頂戴」のエンターテイメントではない。
「泣け、笑え、そして、考えろ。」
ここまで言ってもらいたい。
誰が誰を裁けるか。
路頭に迷うかも知れない障害者の娘を、自ら手に掛けた愛ある殺人を、誰が裁けるのでしょう。
施設に預けたまま、面会に来ない、子を捨てたも同然の親と、どちらが罪なのでしょう。
かと言って、それさえも、責める権利を誰が持つのでしょう。
私には障害者の身内はいません。
その苦しみも悲しみも悔しさも喜びも理解することはできません。
障害者の親御さんがおっしゃるのを、よく耳にします。
「障害があるからと言って不幸ではない。」
「障害があることで、幸せに気付けた。」
このようなことを言えるようになるまでに、どれほどの涙を流したのでしょう。どれほど眠れない夜を過ごしたのでしょう。
このような結論にたどり着く方は、強いのです。強くならなければいけなかったのだと思います。
答えを見いだせず、我が子を愛せずに、「なぜうちの子が。」と嘆き続ける親御さんも多いことでしょう。
私に障害者の身内はいませんが、親や兄弟はいます。
将来、親が認知症になって介護を必要とする可能性があります。付きっきりでいなければならなくなる可能性があります。兄弟が事故で障害を持つ可能性があります。
誰もが、いっぽんと同じ道を辿る可能性を持っています。
そして必ず、ひまわり荘のような場所を必要とします。
仕事や、支援や、仲間や、理解者や、穏やかな生活や、守ってくれる場所を必要とします。
ひまわり荘は理想郷です。
でも、社会は、そうではないのです。
殆どの人が、知的障害者と接する機会がありません。偏見や誤解があるのも確かです。そして、悲しいことに、知的障害者による事件や知的障害者が巻き込まれる犯罪が多いのも、また事実なのです。
私自身、滅多に接することのないような重度の知的障害者に対して、上手に接する手段を知りません。
正直に申し上げますと、怖いとさえ思うこともあります。飲食店や交通機関の中で、大人の男の人が急に大声をあげたり、手足をばたつかせたりすることは、やはり付き添いの方がいらっしゃらなければ、周囲に不安を与えます。
何をしたら怒るのか、何を言えば傷つくのか、何を気をつければいいのか、何をしたら嬉しいのか、彼らの自分との「違い」を「個性」と捉えられるほど、慣れていないのです。未知であるが故に、人は「戸惑い」と「恐怖」を抱くのです。
この作品は、私を含め知的障害者と接する機会の少ない人に、彼等の様子をコミカルに描き、
「彼等との暮らしは大変だけれど、こどものようにピュアだから、笑えることがたくさんあるよ。」
と教えてくれるものでした。
そして、その反面、逃げ場の無い追い詰められた現実をも突きつけて来ました。
「泣けた」「悲しい話だった」で終わらせられない。
「もしも身近に」
「もしも自分が」
知的障害に限ったことではなく、
もしもハンディを背負ったら。ハンディを背負った人と出会ったら。
社会で生きていく上で。
社会のシステム。経済的な問題。
そして、家族であると言うことは。
本来なら、新聞の片隅で、殆ど誰の目にも留まることなく忘れ去られていく、辛く悲しい出来事。
舞台として、映画として、たくさんの人の目に触れる「形」になったからには、
「泣いた」だけでなく、「知った」と捉えなければいけないのだと思います。
知らなくても生きていける、知らない方が楽かもしれない、
けれど、知らなければいけないことを、この物語は知らせてくれます。
このような責任ある題材を映画として世に出したと言うことに、私は凄まじい気概のようなものを感じました。