「「曖昧さ」が鍵を握る」マーサ、あるいはマーシー・メイ キューブさんの映画レビュー(感想・評価)
「曖昧さ」が鍵を握る
「マーサ、あるいはマーシー・メイ」はすべてが非常に曖昧な映画だ。ストーリー、キャラクター、映像。美しくも不気味な世界観が何とも言えない余韻を残す。
まず初めに挙げるべきは主演のエリザベス・オルセンだろう。「フル・ハウス」のオルセン姉妹の妹だが、今回が初の劇場映画らしい。しかしそうだとは思えないほど見事な演技を披露する。映画の序盤から見せる、ひたすら不安そうな表情は見ているこちらの焦燥感も煽る。何か質問されたりしても低い声でブツブツとつぶやき、自らの過去を明かそうとしない。時折、大丈夫そうな様子を見せるものだから余計に不安定な印象を与える。
彼女はこの本来の「マーサ」とカルト集団に洗脳され切った「マーシー・メイ」との切り替えが非常に上手だ。露骨な二重人格的描写に陥ること無く、いつの間にか「常軌を逸した」状態に変わってしまう。劇中では自らの体験を一切語らないのにも関わらず、彼女は体に刻み込まれた恐怖を全身で表現できる。まさに“引き込まれる”演技だ。
そんな彼女の(良い意味で)微妙な演技と調子を合わせるかのように、映像も曖昧な時間感覚を作り出す。特筆すべきは見事な編集だろう。姉夫婦の家に居候するマーサの現在と彼女の回想がシームレスにつながれているから、どこからどこまでが時間的な区切りなのか見分けがつかなくなる。この「曖昧な」編集が観客に不安感を植え付ける。一度マーサは姉のルーシーに「夢と現実の区別がつかなくなることがあるか」と聞くのだが、私たちが陥るのはまさにその状態だ。編集により、主人公のマーサとの感情の共有に成功しているのである。
もう一つはマーサだけにピントを合わせることで空間的な「曖昧さ」を演出している点だろう。彼女以外の存在がすべてぼやけて映し出され、精神的に追いつめられていくマーサの精神状態を直接的に表している。特にカメラの端に誰とも分からない人影が一瞬映る時の不気味さは何とも言えない。実際、この効果はエンディングに近づくにつれて重要な役割を果たすようになる。
このように、この映画の最も評価すべき点は「マーサの不安定な心」のみを描き続けることで、一つの映画として成立した点だ。空中に漂っているような感覚を持続させて、観客の焦燥感をひたすら駆り立てる。だからこそ、その「宙ぶらりん」であることが欠点にもなっている。
最も大きな点は彼女の恐怖の根源であるカルト集団、特にリーダーのパトリックの描写だろう。彼を演じるジョン・ホークスは今回も素晴らしい演技を見せてくれるが、パトリックというキャラクター自体に深みは無い。なぜ彼がそこまで恐れられ崇められる存在なのか。そもそもこの生活を始めた理由は何なのか。こういった部分が一切明かされないため、彼の精神的な影響力が見えてこないのだ。とはいえ、ジョン・ホークスはその骨張った容姿と無駄に力強いその眼差しで、見るものを凍り付かせ、話さなくても異様さを体から放つ。不気味なカリスマ性を持った人間を、「なぜ」という疑問抜きで演じ切ったのだ。(彼が披露する「マーシーの歌」も忘れがたい)
「曖昧」であることにこだわりすぎて、少々説得力に欠ける部分はある。だがディテールの描写に手を抜いていないから、見えていない部分にも生活感が感じられて、リアリティを失っていない。だからこそ幻想的なストーリーが身近なものとして、観客にも恐ろしいものに思えるのだろう。一つ一つのパーツが完璧に組み合わさった秀作である。
(13年3月25日鑑賞)