劇場公開日 2024年10月5日

貝殻と僧侶のレビュー・感想・評価

全1件を表示

2.5頭パッカーーン!の笑撃。性欲と羨望。女性監督による世界初のシュルレアリスム映画。

2024年10月10日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

頭パッカーーン!!!
って、『暗闇仕留人』で石坂浩二の糸井貢に「真っ二つ」にされた津川雅彦かよwww

シュルレアリスム映画祭3プログラム目、その2。『幕間』と併映にて鑑賞。
『アンダルシアの犬』に少し先駆ける形で公開されたことで、史上初のシュルレアリスム映画と称される中篇サイレント映画。

脚本のアントナン・アルトーって、どっかで名前を聞いた覚えがあるなと思ったら、『裁かるるジャンヌ』でジャンヌの告解を聞く神父役をやってた人なんだな。たしか演劇界で絶大な影響を与えた思想家だったと思うけど、シュルレアリスム方面でも名を残した人だったのか。
監督はジェルメーヌ・デュラック。女性でありながら、14年間で28本の映画を撮ったというから筋金入りだ。当時のフランスのジェンダー事情はよく知らないが、音楽家(プレイヤー)や画家、作家同様、映画監督も、女性が参画してもおかしくない職種ととらえられていたのか。映画黎明期に女流がきちんと活躍していた事実は、もっと認知されるべき情報だと思う。

ただし、映画が面白かったかと言われると、さてどうなんでしょうね?
併映されたルネ・クレールのダダイズム映画『幕間』が、きわめて陽性で、リズミカルで、稚気に富んだ「愉しい」映画だったことを考えると、こちらは陰々滅々としてとっつきにくい映画なんだよね(笑)。
おそらく『幕間』の基調にあるのがスラップスティックのコメディであるのに対して、こちらの基調にあるのがドイツ観念主義映画のような「ゴチック」だというのが大きいんだろうけど。
あるいは、ダダの圧倒的に前向きで破壊的な熱気に対して、シュルレアリスムの場合、根暗さっぷりが半端ないというか、内向きのねちねちした探求心の湿度が高いというか(笑)。

暗闇に穿たれた、光の差し込む扉。
そこから地下に入っていくと、僧侶がなにやら錬金術の秘儀のような作業に没頭している。空になったフラスコをどんどん破壊して、床に山積みにしていく僧侶。
そこに得体の知れない「将軍」の影が忍び寄って来て……。

あらすじを観ると、将軍と女性の姿を見た僧侶の性的妄想みたいに書いてあるのだが、僧侶が二人を見る「前」に、僧侶の後ろに将軍の幻影のようなものが立ち現れるエピソードがあるので、時系列や相関関係がきわめてわかりにくい。というか、あえてそういったロジカルな部分を引っ掻き回して壊す方向にナラティヴが組まれているので、通しで観てもしょうじきなんの話だかさっぱりわからない(笑)。

それと、とにかくテンポが悪い。
1個1個のショットはかっちりしていて美しいのだが、モンタージュの間合いが冗長で、シーンのつなぎに流麗さが一切ない。敢えてわかりにくく作ろうとしているのはよくわかるが、これだけ「下手」に見えるように作らなくともいいのに、とは思う。
延々と続く同じようなシーンの繰り返しと、バランスの悪いつなぎ方に辟易する。
その圧倒的な退屈さと睡魔を呼ぶ冗長さの合間に、「四つん這いで這いずり回る神父」とか「頭パッカーン」とか「おっぱいポローン」みたいな面白衝撃シーンが無造作に差しはさまれる……といった感じ。てか、1920年代に当たり前みたいにバストトップが登場するんだな(笑)。

映画で扱われている思想的な内容が「抑えきれない性欲」と「世俗的な嫉妬と羨望」というのは、いかにもシュルレアリスムらしい感覚ではある。それを理解しやすくするために、主人公を僧侶に設定し、憎しみの対象にいかにも父権的で強権的な佇まいの「将軍」、憧れの対象にいかにも高貴で手の届かなさそうな「淑女」を置くという構成。
偉そうな御主人がいて、ファム・ファタルの愛人がいて、下層階級の男が横恋慕して、あれこれ妄想を繰り広げるというのは、実は「ノワール」の原型ともいえる舞台立てでもある。

シュルレアリスムの基本は、人間の無意識の領域に絶対の信頼を置いて、通常言語化や視覚化が難しい無意識下の精神活動をなんとかして「言葉と絵」に描き出そうとするものである。「シュール」であること、奇妙で不気味で怪しいことは、その結果生じるものであり、夢への執着や自動筆記、デペイズマンといった技法は、無意識の領域で人間を動かしている本質的なものを「外に引きずりだす」ための「釣りのテクニック」のようなものだ。
本作を鑑賞するときも、彼らの「本当にやりたかったこと」を考えながら観るのが筋なんだろうが……そこがうまく伝わってこないもどかしさはある。
要するに、うまくやらないと、単なる「奇をてらっているだけの」「意味も筋もわからない」イメージ映像集にしかならないってことだよなあ。

以下、ざっとした流れを備忘録的に。
●地下室で錬金術的な実験にふける僧侶。割れるフラスコ。液体を注ぐための貝殻。図像学的には、フラスコと貝殻は錬金術的なモチーフであると同時に、性的な隠喩も含む。
●後ろに現れた将軍の生霊(?)が巨大な貝殻を奪い取り、剣でまっぷたつに。
●四つん這いで街に繰り出す僧侶。途中で立って走り出す(立てたのかよw)。
●告解室のようなセットで見つめ合う将軍と淑女。それを覗き見る僧侶。二重の窃視感覚。
●将軍に襲い掛かって首を絞める僧侶。頭パッカーン。崖から将軍を突き落とすショット。
●淑女の胸元をはぎ取って乳房をあらわにする僧侶。そこに貝殻型のブラジャーが現出する。それもはぎ取ってふたたび乳房を露出させる僧侶。ここはまあまあ衝撃的(笑)。
●舞踏会で踊る人々。一緒にぐるぐるまわるシャンデリア。キスをするカップル。
●ふたたび玉座に現れる将軍と淑女。手に貝殻をもつ僧侶。振り上げた貝殻型ブラジャーを地面にたたきつけると発火。
●白いミューズのような恰好の淑女に向かって歩き出した僧侶の裾がどんどん伸びていく。
●格子模様の宮殿を歩いていく裾の長い神父。
●一転、川べりの道での淑女と僧侶の追いかけっこ。途中で将軍も交じる。
●宮殿内の一室に飾られる謎の球(?)の前で催眠術のような格好をする僧侶。
●ハンモックで寝っ転がる僧侶。
●船や城のおもちゃのイメージとたわむれる僧侶。
●球の置かれた部屋を掃除するメイドたち。
●将軍が神父役を務める、淑女と神父の結婚(?)の儀式。
●オーバーラップする船のおもちゃ。球を運ぶ神父。
●球を落とすと割れて、中から神父の顔が出て来る。手元に現れた貝殻でそれをすくって呑み込む神父。睥睨する神父のショットでFin。

こうやってまとめてみると、やはり「錬金術」と「性」と「マウンティング」をめぐるイメージが、話の基本みたいな感じがするなあ。
あと、この手のサイレント映画に、電子音楽のようなのを付けてあるのをよく見るけど(『アンダルシアの犬』にもたくさんそういうバージョンがある)、これってそんなのでいいのかなあ? つくられた当時、絶対に制作者が知らなかった音楽を平気な顔してセットにする感覚って、結構個人的には抵抗があるんだけど……。

コメントする (0件)
共感した! 0件)
じゃい