炎上のレビュー・感想・評価
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永山則夫
改めて、鑑賞してみて、わかったことがある。溝口吾一(市川雷蔵)は『分裂症』気味だと警察関係が判断した。
今流にいって、精神疾患であるが、それに、どもり(映画の中で使われている言葉、2021年では吃音症という言葉を選んで使ってる。)に子供の頃の悪環境により今で言う自閉症気味にもなっている。
例えば、胸を患っている父親である住職の寺の経営難。母親は親戚のおじさんとの不貞。醜態を見せまいとして、父親が溝口吾一の目を隠すシーン。どもりだから、からかわれたりいじめられたりするため疎外感。 彼のどもりを理解してくれたり、全く気にしていない、鶴川(舟木洋一)や老師(中村鴈治郎)のような存在が幼少の頃の彼にはいなかった。 だからと言って、堂々とどもっていても平気だ、どもっている人間と会話ができないのはできない相手に問題があるといえるようなカリヤ(仲代達矢)のような強い存在では彼はなかった。 大学になってこのような存在の人が現れたわけだが、鶴川には心を開けたけど、事故でなくなってしまった。カリヤは『全てが変わるから、生きているんだ』溝口とは真っ向から相容れないが。老師にも心を開くことができなかった。老師が芸妓を囲っていることを知る以前から、人に寄り添って、甘えるような心が溝口には定着していなかった。孤立感を背負っていて、心の中を見せられる人間との交流がないから、安定していて、戦争中でも変わらない美しさに執念を抱くようになる。また、驟閣の美に溺れる父親が息子、吾一に影響を与えた。はっきりいって、自分が立ち向かえない、蟠りのある現世から逃れ、、驟閣を理想郷として考えるようになったと思う。親子共々、孤立感から厭世主義になり、、驟閣を考えただけで、この世の汚いことを忘れると溝口は言っている。溝口本人も汚れてしまったことを自認していると思う。
あらすじは全く書く気がないが、ここで奇妙なことに気づかされた。 ご存知かと思うが、死刑囚の永山則夫(知らなかったら調べてほしい)だ。彼の子供の頃の家庭環境はすでに破壊されていたが、母親の里に引っ越した時、土地の方言が話せず虐められ、友達もできず、孤立化したと言う。これは戦中の話ではなく、20世紀、昭和時代のことだが。孤独で、いじめの中で、友達もできないし、精神的に患ってしまい、犯罪に手を染めてしまうとことまで似ていて、被ってしまった。永山則夫は獄中で手記を書き、自分の心の中を曝け出し、読者という理解者、共感者を集めたが、溝口は、驟閣の美について娼婦やカリヤに話しても、全く理解されなかったり、全く正反対の意見を言われ、共感できる相手を見つけられなかった。これは本人にとってくるしいことだと思う。 個人的にこのような経験をしているので良くわかる。 しかし、私にとってみると、驟閣の美についての形容が十分でなく、映画画面でそれを感じろと言われても無理があった。脚本をもっと、三島の金閣寺描写に近づけて欲しかった。
父親の夢の中に住んでいる溝口、ひとりぼっちで理解されない溝口。ここで、老師の役割は絶大だと思う。溝口は人に虐められるが、老師の嫌がることをして虐める。愛の受け方は知らなくて、逆手に取る例だ。老師の愛は大きい。自分が何をしているか知っているし、それが罪だと言うことも。だから、自分は相応しくないから寺を返すという。心の中の葛藤、醜悪を面に向き合い解決しようとしている。この映画を見ながら、老師と溝口はちょっと似ているので、共通性を考えてみたが、老師は寺を溝口に譲ることを諦めて、自分の問題点を論理的に解決をしようとする。溝口は自己中心の負の連鎖の渦にいるようだから、分裂症気味になり、ここから抜け出せなく、自分を冷静に見つめることができない。驟閣が炎上した時、老師は『仏の祟りや』と言うが、これは自分の罪のせいだと思っている。老師だけが最後まで溝口のために上告してくれた。そして、罪の懺悔の旅に出る。溝口はまだ負の連鎖の中にいる。 一般市民は駅で無責任なことを言い合う。
映像では表現しにくい、映像にはならない心理、心象の文学世界を、ものの見事に映像作品として成立させています
実際の事件は1950年
本作は1958年の公開
今からそれぞれ70年前、62年前のこと
金閣寺は1955年に再建され、そこからは65年の歳月が経っています
思い立ってその金閣寺を訪れて見ました
劇中に映像にあるようなほとんどの金箔が剥ぎ取れて黒くなった建物ではなく、現代の人間の知る一面の金箔で燦然と輝くその姿で美しい庭園の中にありました
溝口がこの金閣寺を見たならどう思ったでしょうか?
溝口が娼婦を引き倒した縁側もあります
老師が夜中にひれ伏していたと覚しき場所もそのままあります
撮影は別の寺かも知れませんが同じ光景があります
京都一の繁華街新京極の寺町通りには溝口が老師の顔を見かけて逃げこんだと似た路地も残っていました
老師が女とタクシーに乗り込んだ四条通りは劇中と同じように車が盛んに往来し、歩道も行き交う人で溢れています
黒い犬こそいませんが62年もの歳月が過ぎ去ったとは思えないほどです
老師と溝口は表裏一体では無かったのかと思います
老師も溝口も驟閣寺を至高のものとして崇めているのは同じです
どちらが至高の存在である驟閣寺を愛するに相応しいものであるのか争っているとも言えます
そして在りたい姿の自身と現実の自分の姿とのギャップに悩み、自己嫌悪に陥っているのも同じなのです
それ故に老師は溝口に追けられたと誤解し、写真を新聞に入れられ批判されていることに苦悩しているのです
腹をたてているのは溝口に対してではなく、自分の偽善者ぶり、自分の止められない煩悩に対して腹を立てているです
溝口に批判される罪悪感、それを溝口になすりつけた自己嫌悪
それを夜中驟閣寺の舎利殿の前にひざまずいて、仏に詫びていたのです
だから溝口に見られたと気づいた時に老師は逃げだすのです
逆に溝口は老師から追けられていたと誤解します
決して驟閣寺をお前には渡さないという意志だと受け取ったシーンだったと思います
溝口は自分が最終的に何をしようと考えているのかを見透かされて警戒されているととらえたのだと思います
溝口は老師との驟閣寺を取り合う争いに敗れつつある事を自覚するのです
つまり老師と溝口、この二人は驟閣寺への愛を争う物語だったのです
溝口はその争いに敗れた時に、最愛の女性をライバルに永遠に盗られたのと同じように絶望したのです
その上、失意のまま帰る故郷の寺もなく逃げ場も無くしてしまっていたのです
田舎に残してきた彼女まで知らぬ間に嫁に行っていたようなものです
さらに汚らわしい象徴である母が、驟閣寺に住みつき、働きだしたことは、清純で美しい至高の存在が、母にどんどん汚されていくことになるとしか考えられなかったのです
そのときクライマックスに至る訳です
戸刈は足の障害を持っています
言葉の障害を身体の障害に置き換えた溝口です
戸刈はその障害を逆手にして美女を次々と自分のものにしていくのです
ならば溝口もやり方次第で、手にはいらないと諦めているような、高嶺の手の届かないものであっても、何でも欲しいものを手に入れられるのだと考えるに至ります
戸刈はその為の補助線としての人物なのです
放火事件とは心中事件だったのだと思います
仏教界の堕落への批判とか、金閣寺の美がどうとかというのはその周辺のことなのだと思います
最愛の女性を手に入れられないなら、彼女を殺してしまい、自分も死ぬ
あの世で一緒になり永遠に自分のものにしようと思い詰める
溝口の心理は自分にはそのように思えました
だから、死にきれず逮捕された時彼は最早脱け殻だったのです
炎上する驟閣寺の映像美
沖縄の宝、首里城正殿の大炎上のニュース映像が思い出されます
夥しい火の粉が舞狂うその赤い光景が脳裏にオーバーラップします
本作では金粉が舞うかのように見えます
実際に撮影も闇夜に金粉を扇いで舞飛ばし照明をあてて光らせたものといいます
その火の粉の舞を見た時、溝口は目を見開いてたじろぎます
あまりの美しさに?
自らの手で美しいものが滅びさる光景の美しさ
それは激しく愛したものを、自らの手で消し去り、遂に自分だけのものにした勝利の感動だったのかも知れません
炎上する驟閣寺の前に呆然と立つ老師
彼は仏の裁きじゃと口走ります
老師は、溝口に批判された自らの行いへの仏罰によっておきたものだと考えているのです
つまり溝口が仏の代わりとなって自らを裁いたと
その敗北感に包まれているのです
この時点では溝口が放火犯とは分かっていません
それでも彼は溝口に負けたと感じているのです
黒い犬の正体とは何か?
溝口はその犬の尾をただ虚しく夢遊病のように追っていたに過ぎません
しかし、その結果このクライマックスに突き進むきっかけとなったのです
つまり黒い犬とは犬の姿を借りた仏だったのです
溝口をして老師に仏罰を与え目を覚まさせる裁きを成されたのかも知れません
そうして、溝口には最愛のものを自らの手で燃やさせ、その上で生き残らせるという、溝口に取って一番重い罰を与えているのです
母まで溝口のせいで自殺させ奪っているのです
映像では表現しにくい、映像にはならない心理、心象の文学世界を、ものの見事に映像作品として成立させています
脚本、構成、演出、撮影何もかも見事です
溝口を演じた市川雷蔵
老師を演じた中村鴈治郎
この二人の演技を超えた演技
どちらも内面にある本人の実体が映像になっているような迫真さがあります
本作では特に市川雷蔵の演技が絶賛されていますが、自分は中村鴈治郎の演技も特筆すべきものだと思います
彼の演技が市川雷蔵と釣り合っているほどのものであるからこそ、この表裏一体の関係性が成立しているのだと思います
そして戸刈を演じた仲代達矢のデフォルメした足の障害演技もまた優れた解釈です
永遠に語り続けられる名作でしょう
今一度、再建された金ピカの金閣寺を振り返って去る時、黒い犬の姿を借りて裁きを行った仏様はこの光輝く金閣寺をご覧になられ、どのように思し召されたのでしょうか?
そのことが脳裏でぐるぐると渦を巻きました
もちろん、金ピカの金閣寺は創建当時の姿を忠実に再現したものです
追記
ラストシーンは何かの古い白黒の洋画で、とても良く似たシーンを観た覚えがありますが、作品名を思い出せません
事故現場に駆けつける刑事達の乗った自動車が線路脇をガタガタと進む光景です
本作とどちらが古いかも分かりません
どなたかご教示頂けましたら幸いです
「金閣寺」って名前を使えなかったので驟閣寺(しゅうかくじ) に
この雷蔵ののっぺりとした顔は内向的な主人公そのもの。足の悪い友人役の仲代達矢がまた絶品。宮川一夫撮影の白黒画面はコントラスト効いてた。全編淡々とした音楽が素晴らしい。
三島原作とはややニュアンスが異なるが映画的解釈として悪くない。ラストも原作と大きく違うが、ドライな描き方がまた市川崑らしいのであった。
中村鴈治郎と中村玉緒と親子で出てきたよ(共演シーンはなし)
屈折!
映画スタア、市川雷蔵が丸坊主で屈折した若者を演じる。
とてもイイ!
孤独、欲望、不安…
すべての感受性の強い若者が持つ絶望感と鬱屈を、主人公が体現し
金閣寺(映画では別名)炎上という見事な美しい破壊をなしとげる。
これを若者が見たら、自殺が減るんじゃないだろうか。
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