劇場公開日 1958年8月19日

「映像では表現しにくい、映像にはならない心理、心象の文学世界を、ものの見事に映像作品として成立させています」炎上 あき240さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0映像では表現しにくい、映像にはならない心理、心象の文学世界を、ものの見事に映像作品として成立させています

2020年1月15日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

実際の事件は1950年
本作は1958年の公開
今からそれぞれ70年前、62年前のこと

金閣寺は1955年に再建され、そこからは65年の歳月が経っています

思い立ってその金閣寺を訪れて見ました
劇中に映像にあるようなほとんどの金箔が剥ぎ取れて黒くなった建物ではなく、現代の人間の知る一面の金箔で燦然と輝くその姿で美しい庭園の中にありました

溝口がこの金閣寺を見たならどう思ったでしょうか?

溝口が娼婦を引き倒した縁側もあります
老師が夜中にひれ伏していたと覚しき場所もそのままあります
撮影は別の寺かも知れませんが同じ光景があります

京都一の繁華街新京極の寺町通りには溝口が老師の顔を見かけて逃げこんだと似た路地も残っていました
老師が女とタクシーに乗り込んだ四条通りは劇中と同じように車が盛んに往来し、歩道も行き交う人で溢れています
黒い犬こそいませんが62年もの歳月が過ぎ去ったとは思えないほどです

老師と溝口は表裏一体では無かったのかと思います
老師も溝口も驟閣寺を至高のものとして崇めているのは同じです
どちらが至高の存在である驟閣寺を愛するに相応しいものであるのか争っているとも言えます

そして在りたい姿の自身と現実の自分の姿とのギャップに悩み、自己嫌悪に陥っているのも同じなのです

それ故に老師は溝口に追けられたと誤解し、写真を新聞に入れられ批判されていることに苦悩しているのです
腹をたてているのは溝口に対してではなく、自分の偽善者ぶり、自分の止められない煩悩に対して腹を立てているです

溝口に批判される罪悪感、それを溝口になすりつけた自己嫌悪
それを夜中驟閣寺の舎利殿の前にひざまずいて、仏に詫びていたのです
だから溝口に見られたと気づいた時に老師は逃げだすのです

逆に溝口は老師から追けられていたと誤解します
決して驟閣寺をお前には渡さないという意志だと受け取ったシーンだったと思います
溝口は自分が最終的に何をしようと考えているのかを見透かされて警戒されているととらえたのだと思います
溝口は老師との驟閣寺を取り合う争いに敗れつつある事を自覚するのです

つまり老師と溝口、この二人は驟閣寺への愛を争う物語だったのです
溝口はその争いに敗れた時に、最愛の女性をライバルに永遠に盗られたのと同じように絶望したのです
その上、失意のまま帰る故郷の寺もなく逃げ場も無くしてしまっていたのです
田舎に残してきた彼女まで知らぬ間に嫁に行っていたようなものです
さらに汚らわしい象徴である母が、驟閣寺に住みつき、働きだしたことは、清純で美しい至高の存在が、母にどんどん汚されていくことになるとしか考えられなかったのです
そのときクライマックスに至る訳です

戸刈は足の障害を持っています
言葉の障害を身体の障害に置き換えた溝口です
戸刈はその障害を逆手にして美女を次々と自分のものにしていくのです

ならば溝口もやり方次第で、手にはいらないと諦めているような、高嶺の手の届かないものであっても、何でも欲しいものを手に入れられるのだと考えるに至ります
戸刈はその為の補助線としての人物なのです

放火事件とは心中事件だったのだと思います
仏教界の堕落への批判とか、金閣寺の美がどうとかというのはその周辺のことなのだと思います

最愛の女性を手に入れられないなら、彼女を殺してしまい、自分も死ぬ
あの世で一緒になり永遠に自分のものにしようと思い詰める

溝口の心理は自分にはそのように思えました
だから、死にきれず逮捕された時彼は最早脱け殻だったのです

炎上する驟閣寺の映像美
沖縄の宝、首里城正殿の大炎上のニュース映像が思い出されます
夥しい火の粉が舞狂うその赤い光景が脳裏にオーバーラップします
本作では金粉が舞うかのように見えます
実際に撮影も闇夜に金粉を扇いで舞飛ばし照明をあてて光らせたものといいます

その火の粉の舞を見た時、溝口は目を見開いてたじろぎます
あまりの美しさに?
自らの手で美しいものが滅びさる光景の美しさ
それは激しく愛したものを、自らの手で消し去り、遂に自分だけのものにした勝利の感動だったのかも知れません

炎上する驟閣寺の前に呆然と立つ老師
彼は仏の裁きじゃと口走ります
老師は、溝口に批判された自らの行いへの仏罰によっておきたものだと考えているのです
つまり溝口が仏の代わりとなって自らを裁いたと
その敗北感に包まれているのです
この時点では溝口が放火犯とは分かっていません
それでも彼は溝口に負けたと感じているのです

黒い犬の正体とは何か?
溝口はその犬の尾をただ虚しく夢遊病のように追っていたに過ぎません
しかし、その結果このクライマックスに突き進むきっかけとなったのです

つまり黒い犬とは犬の姿を借りた仏だったのです
溝口をして老師に仏罰を与え目を覚まさせる裁きを成されたのかも知れません
そうして、溝口には最愛のものを自らの手で燃やさせ、その上で生き残らせるという、溝口に取って一番重い罰を与えているのです
母まで溝口のせいで自殺させ奪っているのです

映像では表現しにくい、映像にはならない心理、心象の文学世界を、ものの見事に映像作品として成立させています

脚本、構成、演出、撮影何もかも見事です
溝口を演じた市川雷蔵
老師を演じた中村鴈治郎
この二人の演技を超えた演技
どちらも内面にある本人の実体が映像になっているような迫真さがあります

本作では特に市川雷蔵の演技が絶賛されていますが、自分は中村鴈治郎の演技も特筆すべきものだと思います
彼の演技が市川雷蔵と釣り合っているほどのものであるからこそ、この表裏一体の関係性が成立しているのだと思います

そして戸刈を演じた仲代達矢のデフォルメした足の障害演技もまた優れた解釈です

永遠に語り続けられる名作でしょう

今一度、再建された金ピカの金閣寺を振り返って去る時、黒い犬の姿を借りて裁きを行った仏様はこの光輝く金閣寺をご覧になられ、どのように思し召されたのでしょうか?
そのことが脳裏でぐるぐると渦を巻きました

もちろん、金ピカの金閣寺は創建当時の姿を忠実に再現したものです

追記
ラストシーンは何かの古い白黒の洋画で、とても良く似たシーンを観た覚えがありますが、作品名を思い出せません
事故現場に駆けつける刑事達の乗った自動車が線路脇をガタガタと進む光景です
本作とどちらが古いかも分かりません
どなたかご教示頂けましたら幸いです

あき240