無法松の一生(1958)のレビュー・感想・評価
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純真な愛の物語
第19回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞作。
DVDで鑑賞。
稲垣浩監督が1943年に製作した同題作品をセルフリメイク。旧作は軍部の検閲により恋愛のシーンを削除させられ、戦後はGHQによって軍国主義を想起させる場面がカットされてしまうと云う憂き目に合いました。その悔しさからリベンジのつもりで製作された背景があるためか、稲垣監督入魂の一作と讃えるに相応しい傑作だと感じました。
松五郎(三船敏郎)の良子(高峰秀子)への想いが切な過ぎて、胸がギュッと掴まれたように痛くなりました。豪放磊落に見えて実は繊細で、人情に厚い人柄に惹かれました。
良子への恋心を自覚し、そんな気持ちを抱いた己を「汚い」と罵り、二度と会おうとしなかった松五郎の心情を思うと、純粋過ぎるが故の男の悲哀に胸が苦しくなりました。
死に様がなんとも物悲しく、良子と敏雄(芥川比呂志)の慟哭に貰い泣きしました。亡くなってから気づく、松五郎の人と成り…。親子への無償の献身に胸が熱くなりました。
※以降の鑑賞記録
2023/03/18:午前十時の映画祭12(4Kデジタルリマスター版)
※修正(2022/12/14)
こんな男を許容する時代の雰囲気
総合:75点 ( ストーリー:75点|キャスト:75点|演出:65点|ビジュアル:70点|音楽:65点 )
おおらかな明治・大正期に、豪快に生きた男の生涯を綴る。自分の思う道を進む彼はもめごとばかり起こす反面、何事にも負けない強さや人の良さを見せて快い男である。こんな男が現在に生きているとうっとおしいかもしれないが、時代のせいか違和感がない。こんな男も許容してしまうという時代の雰囲気がある。
一方で、不幸な家に生まれて教育を受けられずに文字すらも読めないが、子供好きで学校に憧れる姿がだんだんと明かされる。ちゃんとした家で生まれてさえいれば将軍にもなれたかもしれないと言われた大器が、その一生を町のしがない車引きとして伴侶を持つことも無く独り身のままひっそりと生涯を終える。彼の気持ちを斟酌すれば、そのせつない生き方がしんみりと残された。
前半は必ずしも洗練された演技や演出ばかりではなくて、大仰な演出や子役の稚拙な演技もある。でも三船の演じる松五郎の若い前半の豪快さと、歳を経た後半の寂しさが印象に残って、この時代を自分なりに精一杯生きた松五郎の生涯にひきつけられた。
映画の制作も古くて時代背景と大きく離れていないからまだまだ当時の面影を残しているようで、当時の社会における人々の生活が覗けるように思えるのも嬉しい。時々は美術の作り物感が出てしまう場面もあるが、この時代に総天然色で撮影していていい色を出しているのも良い。
物語も映画も、現代とはとても異なる。この時代ならではの日本だしその時代の価値観を反映した作品という感じがする。でもそれだからこの時代のことを垣間見ることが出来て良かったと思える。何度も再映画化されていて、この作品自体も二度目の映画化である。だがもし21世紀の現代で再映画化されても、この作品なみに当時の雰囲気を出すのは難しいのではないかという気がする。
らっきょうと小学校
三船敏郎の豪放磊落な男臭い演技はいかにも芝居じみて、そのせいもあってか、彼がスクリーンに登場すると、途端にそんな彼をどう見つめてよいものやら分からなくなる。つまり、観ているこっちが気恥ずかしくなるのだ。
しかし、この作品での三船は、ひょっとしたらこの人の仕事を離れた素の姿は、この松五郎のような人物なのではないかと思わせる。それはきっと、脇を固める高峰秀子や笠智衆らの演技によるものでもあろうが、やはりここは三船の素朴な人間性が演技にも出ているのだと思いたい。
運動会の徒競走に飛び入り参加した松五郎を見つめる高峰の気色ばんだ瞳を見れば、このあと松五郎との間に何かが起きることを期待しない観客はいないだろう。松五郎の疾走に男の精力を見出す寡婦の、慎みを忘れてしまったかのような姿を無言で演じて見せている。
街の顔役を演じる笠も痛快な演技である。ぶっきらぼうな松五郎を、生真面目に理路整然と諭す親分の人物造形は独特で笑いを誘う。
小学校の窓から子供たちの様子を見ることを愉しみにしている車夫という設定そのものがすでに涙を誘う。自らが辛く淋しい子供時代を過ごしたからこそ、抑えきれない楽しい学校生活への憧憬。
松五郎と同様に幼くして生母を亡くして継母に育てられ、若くして家を離れて旧制師範学校を出たのち小学校教師となった人物を身近に知る者としては、映画の中の松五郎とこの個人的に知る小学校教師とが合わせ鏡のように見えてならない。その私の祖父である小学校教師もまた、竹を割ったような気性であり、子供たちが好きだったと、生前の彼をよく知る者から伝え聞く。
このように観客が現実の生活の中で知っている人物と映画の登場人物とが重なり合うとき、物語の内容や登場人物の印象は通常の者とは全く違ってくる。物事の解釈や認識に強いバイアスがかかっていることを自覚しつつも、そのバイアスに身を委ねたいという欲望。ノスタルジーや同情に浸る快楽。このような映画への触れ方も良いものだ。
さて、松五郎が吉岡少年にらっきょうを勧めるシーンが忘れられない。少年の口では一口で頬張れないほどの大粒のそのらっきょうの美味そうなこと。ペコロス玉ねぎほどの大きさもあるあのらっきょうはどこで食べることができるのだろうか。大正の北九州小倉へ行かなければ食すことのできないものだろうか。
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