劇場公開日 1958年4月22日

無法松の一生(1958)のレビュー・感想・評価

全24件中、21~24件目を表示

4.0本作のオリジナル版がオールタイムベストの一覧に加えられている大きな理由とは

2019年10月17日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

日本映画オールタイムベストに掲げられているのは1943年版の方です
本作は稲垣監督がセルフリメイクした1958年版です

物語は北九州小倉の人力車牽きの通称無法松の文字通りの一生です
大した事件も出来事もそうあるわけではありません
ヤクザものぽいですが全く関係有りません
確かに笠智衆が大迫力の顔役として登場しますが、それだけのことです

明治30年1897年から物語は始まります
1905年の日露戦争祝勝会、1909年とおぼしき小倉工業学校の運動会、1914年の第一次世界大戦でのドイツ領青島攻略の祝勝提灯行列、途中1870年の明治初年頃の主人公の子供時代の回想、最後は1919年頃と思われる小倉祇園祭りでの有名な祇園太鼓のシーンと同年の冬の主人公の死によって終わるものです

彼は貧しく不幸な境遇に生まれ無学文盲です
彼は決して頭が優れてはいないのですが、大きな人間性を持っていました
IQに対してEQ(心の知能指数)が優れていた人であることを沢山のエピソードで語られます

決して政治性を持った内容では有りません
左右どちらにも政治に関しては全く関係の無い内容です

しかし本作のオリジナル1943年版は二度検閲を受けいくつものシーンカットさせられていることで有名です
一度目は戦前の体制によって
二度目は戦後のGHQの指示によって
そのシーンとは決して公序良俗に反する淫靡なものでは有りません
今となれば何のことの無いシーンです
戦前は戦争未亡人に対する無法松のプラトニックな想いが伺えるシーンを問題視され、戦後は戦前の各々の戦勝祝勝会シーン等を問題視されたのです

本作はその悔しさから、改めて監督が当初の内容で撮り直した作品になります
今風に言えば再撮影完全版というものでしょうか

皮肉なものです
人間性豊かな人物を讃える映画が、戦前と戦後の二つの体制両方から圧力を受けたという、正に戦争は人間性を窒息させる真空地帯ということを地で行っています
その点が本作のオリジナル版がオールタイムベストの一覧に加えられている大きな理由のひとつかと思います

三船敏郎は魅力的ですがもっと弾けて見せても良かった気はします
高峰秀子34歳
歩兵大尉の上品な奥様という役柄がピタリとはまっています
しかしラストシーンでのカタルシスまでには至りませんでした
彼女の演技に問題があった訳ではなく、そこに至る脚本と監督の演出の問題であったと思います
肝心のハイライトたる祇園太鼓のシーンも盛り上がりに欠け正直拍子抜けなのは残念でした

コメントする (0件)
共感した! 3件)
あき240

5.0純真な愛の物語

2019年8月28日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:DVD/BD、映画館

泣ける

悲しい

楽しい

ネタバレ! クリックして本文を読む
コメントする (0件)
共感した! 11件)
しゅうへい

4.0こんな男を許容する時代の雰囲気

2015年6月28日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

悲しい

ネタバレ! クリックして本文を読む
コメントする (0件)
共感した! 2件)
Cape God

2.0らっきょうと小学校

2015年6月12日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

泣ける

三船敏郎の豪放磊落な男臭い演技はいかにも芝居じみて、そのせいもあってか、彼がスクリーンに登場すると、途端にそんな彼をどう見つめてよいものやら分からなくなる。つまり、観ているこっちが気恥ずかしくなるのだ。
しかし、この作品での三船は、ひょっとしたらこの人の仕事を離れた素の姿は、この松五郎のような人物なのではないかと思わせる。それはきっと、脇を固める高峰秀子や笠智衆らの演技によるものでもあろうが、やはりここは三船の素朴な人間性が演技にも出ているのだと思いたい。
運動会の徒競走に飛び入り参加した松五郎を見つめる高峰の気色ばんだ瞳を見れば、このあと松五郎との間に何かが起きることを期待しない観客はいないだろう。松五郎の疾走に男の精力を見出す寡婦の、慎みを忘れてしまったかのような姿を無言で演じて見せている。
街の顔役を演じる笠も痛快な演技である。ぶっきらぼうな松五郎を、生真面目に理路整然と諭す親分の人物造形は独特で笑いを誘う。
小学校の窓から子供たちの様子を見ることを愉しみにしている車夫という設定そのものがすでに涙を誘う。自らが辛く淋しい子供時代を過ごしたからこそ、抑えきれない楽しい学校生活への憧憬。
松五郎と同様に幼くして生母を亡くして継母に育てられ、若くして家を離れて旧制師範学校を出たのち小学校教師となった人物を身近に知る者としては、映画の中の松五郎とこの個人的に知る小学校教師とが合わせ鏡のように見えてならない。その私の祖父である小学校教師もまた、竹を割ったような気性であり、子供たちが好きだったと、生前の彼をよく知る者から伝え聞く。
このように観客が現実の生活の中で知っている人物と映画の登場人物とが重なり合うとき、物語の内容や登場人物の印象は通常の者とは全く違ってくる。物事の解釈や認識に強いバイアスがかかっていることを自覚しつつも、そのバイアスに身を委ねたいという欲望。ノスタルジーや同情に浸る快楽。このような映画への触れ方も良いものだ。
さて、松五郎が吉岡少年にらっきょうを勧めるシーンが忘れられない。少年の口では一口で頬張れないほどの大粒のそのらっきょうの美味そうなこと。ペコロス玉ねぎほどの大きさもあるあのらっきょうはどこで食べることができるのだろうか。大正の北九州小倉へ行かなければ食すことのできないものだろうか。

コメントする (0件)
共感した! 2件)
佐分 利信
PR U-NEXTで本編を観る