無法松の一生(1958)のレビュー・感想・評価
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本作のオリジナル版がオールタイムベストの一覧に加えられている大きな理由とは
日本映画オールタイムベストに掲げられているのは1943年版の方です
本作は稲垣監督がセルフリメイクした1958年版です
物語は北九州小倉の人力車牽きの通称無法松の文字通りの一生です
大した事件も出来事もそうあるわけではありません
ヤクザものぽいですが全く関係有りません
確かに笠智衆が大迫力の顔役として登場しますが、それだけのことです
明治30年1897年から物語は始まります
1905年の日露戦争祝勝会、1909年とおぼしき小倉工業学校の運動会、1914年の第一次世界大戦でのドイツ領青島攻略の祝勝提灯行列、途中1870年の明治初年頃の主人公の子供時代の回想、最後は1919年頃と思われる小倉祇園祭りでの有名な祇園太鼓のシーンと同年の冬の主人公の死によって終わるものです
彼は貧しく不幸な境遇に生まれ無学文盲です
彼は決して頭が優れてはいないのですが、大きな人間性を持っていました
IQに対してEQ(心の知能指数)が優れていた人であることを沢山のエピソードで語られます
決して政治性を持った内容では有りません
左右どちらにも政治に関しては全く関係の無い内容です
しかし本作のオリジナル1943年版は二度検閲を受けいくつものシーンカットさせられていることで有名です
一度目は戦前の体制によって
二度目は戦後のGHQの指示によって
そのシーンとは決して公序良俗に反する淫靡なものでは有りません
今となれば何のことの無いシーンです
戦前は戦争未亡人に対する無法松のプラトニックな想いが伺えるシーンを問題視され、戦後は戦前の各々の戦勝祝勝会シーン等を問題視されたのです
本作はその悔しさから、改めて監督が当初の内容で撮り直した作品になります
今風に言えば再撮影完全版というものでしょうか
皮肉なものです
人間性豊かな人物を讃える映画が、戦前と戦後の二つの体制両方から圧力を受けたという、正に戦争は人間性を窒息させる真空地帯ということを地で行っています
その点が本作のオリジナル版がオールタイムベストの一覧に加えられている大きな理由のひとつかと思います
三船敏郎は魅力的ですがもっと弾けて見せても良かった気はします
高峰秀子34歳
歩兵大尉の上品な奥様という役柄がピタリとはまっています
しかしラストシーンでのカタルシスまでには至りませんでした
彼女の演技に問題があった訳ではなく、そこに至る脚本と監督の演出の問題であったと思います
肝心のハイライトたる祇園太鼓のシーンも盛り上がりに欠け正直拍子抜けなのは残念でした
純真な愛の物語
第19回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞作。
DVDで鑑賞。
稲垣浩監督が1943年に製作した同題作品をセルフリメイク。旧作は軍部の検閲により恋愛のシーンを削除させられ、戦後はGHQによって軍国主義を想起させる場面がカットされてしまうと云う憂き目に合いました。その悔しさからリベンジのつもりで製作された背景があるためか、稲垣監督入魂の一作と讃えるに相応しい傑作だと感じました。
松五郎(三船敏郎)の良子(高峰秀子)への想いが切な過ぎて、胸がギュッと掴まれたように痛くなりました。豪放磊落に見えて実は繊細で、人情に厚い人柄に惹かれました。
良子への恋心を自覚し、そんな気持ちを抱いた己を「汚い」と罵り、二度と会おうとしなかった松五郎の心情を思うと、純粋過ぎるが故の男の悲哀に胸が苦しくなりました。
死に様がなんとも物悲しく、良子と敏雄(芥川比呂志)の慟哭に貰い泣きしました。亡くなってから気づく、松五郎の人と成り…。親子への無償の献身に胸が熱くなりました。
※以降の鑑賞記録
2023/03/18:午前十時の映画祭12(4Kデジタルリマスター版)
※修正(2022/12/14)
こんな男を許容する時代の雰囲気
総合:75点 ( ストーリー:75点|キャスト:75点|演出:65点|ビジュアル:70点|音楽:65点 )
おおらかな明治・大正期に、豪快に生きた男の生涯を綴る。自分の思う道を進む彼はもめごとばかり起こす反面、何事にも負けない強さや人の良さを見せて快い男である。こんな男が現在に生きているとうっとおしいかもしれないが、時代のせいか違和感がない。こんな男も許容してしまうという時代の雰囲気がある。
一方で、不幸な家に生まれて教育を受けられずに文字すらも読めないが、子供好きで学校に憧れる姿がだんだんと明かされる。ちゃんとした家で生まれてさえいれば将軍にもなれたかもしれないと言われた大器が、その一生を町のしがない車引きとして伴侶を持つことも無く独り身のままひっそりと生涯を終える。彼の気持ちを斟酌すれば、そのせつない生き方がしんみりと残された。
前半は必ずしも洗練された演技や演出ばかりではなくて、大仰な演出や子役の稚拙な演技もある。でも三船の演じる松五郎の若い前半の豪快さと、歳を経た後半の寂しさが印象に残って、この時代を自分なりに精一杯生きた松五郎の生涯にひきつけられた。
映画の制作も古くて時代背景と大きく離れていないからまだまだ当時の面影を残しているようで、当時の社会における人々の生活が覗けるように思えるのも嬉しい。時々は美術の作り物感が出てしまう場面もあるが、この時代に総天然色で撮影していていい色を出しているのも良い。
物語も映画も、現代とはとても異なる。この時代ならではの日本だしその時代の価値観を反映した作品という感じがする。でもそれだからこの時代のことを垣間見ることが出来て良かったと思える。何度も再映画化されていて、この作品自体も二度目の映画化である。だがもし21世紀の現代で再映画化されても、この作品なみに当時の雰囲気を出すのは難しいのではないかという気がする。
らっきょうと小学校
三船敏郎の豪放磊落な男臭い演技はいかにも芝居じみて、そのせいもあってか、彼がスクリーンに登場すると、途端にそんな彼をどう見つめてよいものやら分からなくなる。つまり、観ているこっちが気恥ずかしくなるのだ。
しかし、この作品での三船は、ひょっとしたらこの人の仕事を離れた素の姿は、この松五郎のような人物なのではないかと思わせる。それはきっと、脇を固める高峰秀子や笠智衆らの演技によるものでもあろうが、やはりここは三船の素朴な人間性が演技にも出ているのだと思いたい。
運動会の徒競走に飛び入り参加した松五郎を見つめる高峰の気色ばんだ瞳を見れば、このあと松五郎との間に何かが起きることを期待しない観客はいないだろう。松五郎の疾走に男の精力を見出す寡婦の、慎みを忘れてしまったかのような姿を無言で演じて見せている。
街の顔役を演じる笠も痛快な演技である。ぶっきらぼうな松五郎を、生真面目に理路整然と諭す親分の人物造形は独特で笑いを誘う。
小学校の窓から子供たちの様子を見ることを愉しみにしている車夫という設定そのものがすでに涙を誘う。自らが辛く淋しい子供時代を過ごしたからこそ、抑えきれない楽しい学校生活への憧憬。
松五郎と同様に幼くして生母を亡くして継母に育てられ、若くして家を離れて旧制師範学校を出たのち小学校教師となった人物を身近に知る者としては、映画の中の松五郎とこの個人的に知る小学校教師とが合わせ鏡のように見えてならない。その私の祖父である小学校教師もまた、竹を割ったような気性であり、子供たちが好きだったと、生前の彼をよく知る者から伝え聞く。
このように観客が現実の生活の中で知っている人物と映画の登場人物とが重なり合うとき、物語の内容や登場人物の印象は通常の者とは全く違ってくる。物事の解釈や認識に強いバイアスがかかっていることを自覚しつつも、そのバイアスに身を委ねたいという欲望。ノスタルジーや同情に浸る快楽。このような映画への触れ方も良いものだ。
さて、松五郎が吉岡少年にらっきょうを勧めるシーンが忘れられない。少年の口では一口で頬張れないほどの大粒のそのらっきょうの美味そうなこと。ペコロス玉ねぎほどの大きさもあるあのらっきょうはどこで食べることができるのだろうか。大正の北九州小倉へ行かなければ食すことのできないものだろうか。
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