「葛飾の欠落した『男はつらいよ』」無法松の一生(1958) 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
葛飾の欠落した『男はつらいよ』
無教養で豪放磊落だが人当たりと心意気の良さは一級品、しかし一方で意中の女性にはめっぽう押しが弱い、という松五郎を見ていて、私は思わず『男はつらいよ』の車寅次郎のことを思い出した。おそらく山田洋次も本作を踏まえたうえで『男はつらいよ』シリーズを制作していたと思う。
しかし松五郎は寅次郎とは違い、己のメンタルを支えるセーフティネットとしての家族や故郷を有していない。悩みや行き詰まりがあったとき「しょうがないんだから」と寄り添ってくれるものが決定的に欠落している。
頼るべきものが何もないが故に松五郎は、寅次郎にはない責任意識のようなものを多分に抱え込むことになる。未亡人に密かな想いを寄せる、というところまでは寅次郎と大差がないが、夭折した彼女の夫への背徳感に精神を食い潰され、「俺の心は汚い!」と懺悔しながら彼女の元から永遠に去ってしまう松五郎の背中には、寅次郎に対しては決して感じたことのない重苦しさがのしかかっていた。思えば松五郎の牽引する人力車というモチーフも、そのまま彼の責任意識の比喩と捉えることができるだろう。
未亡人と永遠の決別を果たした松五郎は、町を飛び出し一人ぼっちで雪道を歩いてゆく。このとき、彼はトレードマークであり責任意識の比喩でもあった人力車を引いておらず、小さなカバンだけを持っていた。
「町を出る」「人力車を置いてくる」という行為によって自己に巣食う責任意識からの脱出を図る松五郎だが、結局どこへも辿り着くことができず、誰にも看取られることなく雪上で絶命する。彼にとって責任意識とはおそらく、逃れるべき仇敵であると同時に、唯一の拠り所でもあったといえるだろう。外部に頼るあてのない人間は、責任意識に基づく自律によって自己存在を保持していくしか生き延びる術がないのだから。
そう考えると『男はつらいよ』はあまりにも救いのない本作に再びハッピーエンドの生を吹き込んでやったものと解釈できるかもしれない。
しかし恐ろしいのは、寅次郎もまた、松五郎と同じ境遇であったならば同様の末路を辿っていたかもしれないということだ。「環境が人の人生を左右する」というありきたりではあるが厳然たるテーゼが、改めて眼前に迫ってくるような息苦しさを覚えた。