劇場公開日 1953年2月5日

十代の性典のレビュー・感想・評価

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2.5性典女優と呼ばれた南田洋子と若尾文子

2025年9月30日
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鑑賞方法:その他

南田洋子と若尾文子は同い年(南田洋子は早生まれだから1級上だと思う)であり大映の同期だった。
この映画への出演が決まった当時、二人が女優としてどういう位置づけにあったのかは知らないが、この映画のヒットで〝性典女優〟と呼ばれて知名度を上げることになる。が、これはマスコミによる蔑称だったらしい。

公開時には20歳前後だった彼女らだが、二人とも幼さが残っているようにも見えるし、髪型などの影響か大人びても見え、不思議な感じだ。
これが、このコたちが揃ってその美貌を開花させる、ほんの直前の姿なのだ。

監督∶島耕二
脚本∶須崎勝弥・赤坂長義
企画∶土井逸雄

十代の女の子4人の物語。
4人の女優が並列でクレジットされている。
18歳の三谷かおる=沢村晶子
19歳の中津川麻子=津村悠子
17歳の西川房江=南田洋子
17歳の高梨英子=若尾文子

十代の女の子の性の実態が描かれている…わけではなかった。
南田洋子と若尾文子が主演だと思っていたのだが、主人公は沢村晶子が演じる三谷かおるだろう。
彼女には過去に悲惨な経験(恐らく、強姦された)があり、貞淑を是とする当時の一般常識と神父である父親の教えが、彼女自身を汚れた存在だと思い込ませてしまっていて、想いを寄せている大学生の新田尚樹(長谷部健)を素直に受け入れることができないのだ。
他の三人はというと、中津川麻子は裕福な家庭の美大生で、新田に横恋慕して かおる にライバル心を燃やしている。西川房江は生理日に情緒不安定になって、同級生の英子の財布を発作的に盗んでしまう。高梨英子は上級生の かおる を「お姉ぇさまぁ」と呼んで慕っている。
そんな彼女らのエピソードが かおる の〝悲劇〟に並行して断片的に描写されるのだが、性の悩みが赤裸々に語られるわけではない。

その一方で、男子大学生どもが結婚相手は処女であるべきだと平気で言い合う場面があり、男が女性に貞淑さを求めるのが当然だという思想というのか生態というのか、が示される。
そのくせ結婚前の女の子のカラダを欲しがるのだから、男というヤツはまったく…。
その場に同席していた麻子が、そんなに処女が大事なのかと訊いたりする。

ミッション系と思われる高校の性教育の授業で、教師は処女性を重んじる貞操観念にまで言及する。それを聴いていた かおる は憂鬱げに外に目をやる。運動場では体育の授業中の英子がいて、屈託なく手を振るのだ。そういう場面から映画は始まる。
当時の性教育が本当にあんなことまで教えていたのかは知らないが、それが かおる を追い詰めるのだから何とも罪作りな教育だ。

生理で体育を休んでいた西川房江は教室で英子の財布を盗んでしまうのだが、生理中だから意図せぬ行動をすることがある…と、不問となるのが驚きだ。
そういう論理で彼女を庇護した女教師が、後に父親にその一件を告げに行くのはどういうことか。もちろん、彼女を責めてのことではないのだが…。
房江には性の苦悩よりも貧乏との葛藤が先立っている。他のコたちはみな裕福なのだが、房江だけが父と二人の貧乏生活だ。
彼女のエピソードは独立して進み、そのまま映画の本筋に合流することなくフェード・アウトしてしまうという…。結局、彼女がどうなったかは置いてけぼりなのだ(*_*;

英子と かおる は同性愛だと陰口をたたかれる関係なのだが、この映画はそこをセンセーショナルに取り上げているようには感じない。
十代の少女同士が疑似恋愛に陥ることは当時から珍しいことではなかったのだろう。少女漫画などにもよく描かれる。成長過程にある通過儀礼のようなものだろうか。
謎なのは、英子にラブレターを送ってきた男子高校生の突然ビンタ攻撃と、打たれた頬をなでながらまんざらでもない感じで微笑する英子だ。こりゃいったい、どういうこと?

かおるを悩ませる悪夢のシーンや無関係の男の影を見ておびえるシーンなどは、ヒッチコック風だ。
ついに新田に唇を奪われる(たぶん)シーンは、ドアを挟んで外側にいる新田(観客には見えない)に引き寄せられてドアの向こう側に見えなくなった かおる の、内側に残った手の動きだけで表現している。今の映画では到底使われない奥ゆかしい演出だ。
一方で、那須の湖畔のロッジの場面には奥ゆかしさはない。新田が かおる に対する欲情を抑えきれなくなる場面だ。好青年然としていた新田の変貌、漁夫の利を得んとする麻子の行動力、ショック状態に陥る かおる。
それらが直接的にサスペンスフルに描かれて、いよいよ悲劇の坂を転がっていく。

それにしても、この映画の かおる は可哀想すぎる。
自分が受けた被害のことを誰にも言えず一人で苦しんでいたのに、そんな様子を微塵も見せず、下級生の英子を優しく受け止めていたのだ。
挙句の果てのこの結末は不憫でならない。
父親の教会で営まれる葬儀に、英子・新田・麻子の3人しか参列していないのは、さすがにどうかと思う。

上級生に進級した英子が、かおる が受けたのと同じ性教育の授業を受けている。
教師は相変わらず処女性が大事だと説いていて、英子の首には形見の十字架が光っている。そういう場面で映画は幕を閉じる。

これを、女は貞淑であるべきだという当時の倫理教育が招いた悲劇とみるか…
いやいや、それ以前に強姦されたこと自体が悲劇なのだから、ちょっとテーマが見えづらい…。

4人の女の子たちの父親には俳優座のベテランなどが配役されていて、娘と父親の親子模様もこの映画の一面だと言える。
かおるの父=千田是也
麻子の父=小沢栄太郎※
房江の父=東野英治郎
英子の父=見明凡太朗
※小沢栄太郎は『妻は告白する』(’61)では、なんと若尾文子の夫を演じるのだ…w⁠(⁠°⁠o⁠°⁠)⁠w

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kazz