列車黄害

劇場公開日:

解説

土本典昭の「水俣」レポート1/実録・公調委」、「水俣一揆」、「医学としての水俣病」三作部、「不知火海」の助監督をつとめてきた31歳の小池征人が、「告別・神山茂夫」(32分・昭和50年)につづいて演出した二本目の記録映画。製作の井上誉士夫は、メッキ工場の水銀たれ流し問題を追究してきた業界紙の記者。同じく製作の菅沼清美は、被爆二世を撮ってきたフリーのカメラマン。撮影の高橋英明は、三里塚や足尾を撮ってきたフリーのカメラマンである。スポンサーの全国鉄施設労働組合(略称・全施労)は、保線工事区に働く労働者によって組織されている国鉄の職能組合で、組合員数は公称六千人。(保線工事区に働く労働者の多くは、国労の組合員である。)昭和46年に結成された全施労は、組合員の労働環境権と労働基本権を守るために、列車の糞尿たれ流しをやめさせようとする闘いを推し進めてきたが、ついに49年4月国鉄を被告とする裁判闘争を開始した。「列車黄害」は、弱小組合・全施労が列車の糞尿たれ流しによる被害=列車黄害の問題の重要さを、組合員に徹底させようとして、製作した映画である。金は出すが口は出さないという組合の姿勢のためにスタッフはほとんど自由にこの映画を撮ることができた。カメラは、エクレールとアリフレックスを使用。録音機は、ナグラ四型。全編が同時録音になっている。約五時間分のイーストマン・コダックのフィルムを使用。製作費は、約五百万円、撮影期間は、50年8月~12月。撮影地は、山梨県の大月保線区と神奈川県の横須賀保線区(鎌倉市)と埼玉県の大宮保線区のミカ所。“線路工夫”と呼ばれて差別されてきた保線労働者たちは、国鉄の縁の下の力持ち的な仕事をずっとやってきたのである。線路を自分の庭と考えて仕事をしてきた彼らには、自分たちの仕事に対する職人的な誇りがあったが、日本の高度経済成長と並行しておこなわれた国鉄の合理化によって、彼らの仕事は非人間的なものになり、過密ダイヤによって仕事の勘を狂わせられた高齢の労働者たちは、列車にひっかけられて死傷することが多くなった。カメラは線路内で働く労働者たちの姿をとらえ、労働者たちはカメラとマイクに向かい、過去と現在の自分たちの仕事と生活について語る。なお、国鉄を相手どった“列車黄害”裁判は、現在も進行中で、この映画は主に組合内部で上映されている。(16ミリ)

1976年製作/54分/日本
配給:その他
劇場公開日:1976年4月13日

ストーリー

※本作はドキュメンタリーのためストーリーはありません。

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