大人の見る絵本 生れてはみたけれど
劇場公開日:1932年6月3日
劇場公開日:1932年6月3日
◯作品全体
小津作品のサイレント映画はこれが初めて。
小津作品の良さの一つとして会話劇の生っぽさがあったから、字幕を使うサイレント映画は少し物足りなさを感じた。
ただ、目線や仕草、姿勢で見せる感情表現はさすがだった。兄弟が父やいじめっ子の亀吉を見つめる時の泳いだ視線とか、ポケットに手を入れたり、足をふらつかせる芝居。立ち位置や姿勢をコロコロ変えて遊ぶ小学生軍団の既視感。かつての自分にも心当たりがあって、いまや100年近くも前になった本作だが、いろいろなところに現代と近い生っぽさがある。
個人的に一番印象に残ったのは、寝てしまった子を見つめる父の丸い背中。
ペコペコと頭を下げたり、おどけて見せたりする父にもなかった、小さくなった姿。「親父」という仮面や「社会人」という仮面を脱いだ父を、このシーンで初めて映す。弱みを吐いたり、妻との会話で仮面を脱がせるのが常套手段な気がするけど、仕草でそれを見せるのがさすがだ。
父と子、それぞれがそれぞれの社会でのヒエラルキーを持ち、偉くあろうと努力しているのだが、強さこそが第一の子どものヒエラルキーと、上下関係が第一の大人のヒエラルキーが衝突する。そこではどうしても「親」とか「学校での立場」とか、自分が付けた仮面越しに相手を見てしまうのだが、仮面をはがして相手を見れば、それぞれの立場を理解できる。その時間こそが「寝顔を見る」「一緒にご飯を食べる」というような親子の時間なのだと感じた。それは100年経っても変わらない、理解のきっかけだ。
子どもと大人、それぞれにあるヒエラルキーと、それぞれにある分断。生まれてはみたけれど、イマイチ理解できないその構造。それを父への失望と優しさで理解していくようなサイレント映画だったが、そこには今なお色褪せない、登場人物たちの姿があった。
〇カメラワークとか
・バックショットを撮るとき、人物を画面下に配置して、空を大きく見せるカットがいくつかあった。今でも使われてるカメラ位置。ダイナミックさが素晴らしい。
〇その他
・今の大田区あたりが舞台なんだろうけど、建物の無さが素直に驚き。舗装されてない道路とかすぐ真横を通る電車とか、逆に新鮮。
■東京の郊外に引っ越してきたサラリーマンの一家。
小学生のの兄弟は父親の上司の子供を手なずけ、近所のガキ大将のような存在となる。
ある日、上司の子供に呼ばれた8mフィルムの上映で、父親が上司に対して卑屈な態度を取っているのを見てしまった彼らは、父親を弱虫だと責めるのである。
◆感想
・サイレント映画は何本か配信で観たが、完全無音の作品は初めてかもしれない。チャップリンの映画だと、仕草がユーモアなので気にならなかったが、前半はちょいと退屈であった。
・だが、後半、子供達が父親が卑屈な態度を取っていた”大人の事情”が分かる辺りから、面
白くなるし、サラリーマンの悲哀も漂って来て、上手いなあと思うのである。
<最後は、お母さんのとりなしもあり、父親と子供二人はいつものように仲良く、学校と会社に出掛けるのである。
今作で印象的なのは、特に後半の父親と母親が子供達を見る優しい眼である。
小津監督は、極初期からヒューマンドラマ制作に長けていた事が分かる作品である。>
昭和七年公開のモノクロ無声映画、活動写真弁士大森くみこさんの活弁とサイレント映画ピアニストの柳下美恵さんのピアノ生演奏つきで観てきました。
大森さんの熱い活弁には感心しました。アドリブで笑いを誘ったり、ちょい役で出ていた若かりし頃の笠智衆の登場場面では何気ない突っ込みを入れたり。活動写真弁士ってなかなか興味深い仕事であり、また重労働です。サイレントピアニストは場面場面でどのような音を流すべきか考えながらアドリブ(なのかな?)でピアノを演奏する仕事でこれも凄いですよね。弁士とピアノ生演奏付きの無声映画、これ病み付きになりそうです。
台詞なしの演技、子供たちも含めて皆生き生きとしていて(活弁とサイレントピアノの助力もあってですね)ホロリとさせられたり、考えさせられたり、さすが評判の名作でした。父を尊敬する息子たちがサラリーマンとしての父の現実、立場(上司にペコペコしたり媚を売ったり)を見せつけられショックを受けるという話なのですが、かつて息子でありそして父親でもあった僕は自分と重ね合わせて考えさせられたり懐かしく思ったり。時代は変われど何も変わらないものってたくさんありますね。
余談ですが、子供たちがたくさん出ていたので、第二次世界大戦で亡くなった方もいるんだろうななんて鑑賞中思ったのですが、観賞後にスマホで確認したら皆さん長生きされていたようで一安心しました。