大人の見る絵本 生れてはみたけれど
劇場公開日:1932年6月3日
劇場公開日:1932年6月3日
小津安二郎監督の大規模な特集上映を開催! 第36回東京国際映画祭の目玉企画
2023年9月19日◯作品全体
小津作品のサイレント映画はこれが初めて。
小津作品の良さの一つとして会話劇の生っぽさがあったから、字幕を使うサイレント映画は少し物足りなさを感じた。
ただ、目線や仕草、姿勢で見せる感情表現はさすがだった。兄弟が父やいじめっ子の亀吉を見つめる時の泳いだ視線とか、ポケットに手を入れたり、足をふらつかせる芝居。立ち位置や姿勢をコロコロ変えて遊ぶ小学生軍団の既視感。かつての自分にも心当たりがあって、いまや100年近くも前になった本作だが、いろいろなところに現代と近い生っぽさがある。
個人的に一番印象に残ったのは、寝てしまった子を見つめる父の丸い背中。
ペコペコと頭を下げたり、おどけて見せたりする父にもなかった、小さくなった姿。「親父」という仮面や「社会人」という仮面を脱いだ父を、このシーンで初めて映す。弱みを吐いたり、妻との会話で仮面を脱がせるのが常套手段な気がするけど、仕草でそれを見せるのがさすがだ。
父と子、それぞれがそれぞれの社会でのヒエラルキーを持ち、偉くあろうと努力しているのだが、強さこそが第一の子どものヒエラルキーと、上下関係が第一の大人のヒエラルキーが衝突する。そこではどうしても「親」とか「学校での立場」とか、自分が付けた仮面越しに相手を見てしまうのだが、仮面をはがして相手を見れば、それぞれの立場を理解できる。その時間こそが「寝顔を見る」「一緒にご飯を食べる」というような親子の時間なのだと感じた。それは100年経っても変わらない、理解のきっかけだ。
子どもと大人、それぞれにあるヒエラルキーと、それぞれにある分断。生まれてはみたけれど、イマイチ理解できないその構造。それを父への失望と優しさで理解していくようなサイレント映画だったが、そこには今なお色褪せない、登場人物たちの姿があった。
〇カメラワークとか
・バックショットを撮るとき、人物を画面下に配置して、空を大きく見せるカットがいくつかあった。今でも使われてるカメラ位置。ダイナミックさが素晴らしい。
〇その他
・今の大田区あたりが舞台なんだろうけど、建物の無さが素直に驚き。舗装されてない道路とかすぐ真横を通る電車とか、逆に新鮮。
昭和七年公開のモノクロ無声映画、活動写真弁士大森くみこさんの活弁とサイレント映画ピアニストの柳下美恵さんのピアノ生演奏つきで観てきました。
大森さんの熱い活弁には感心しました。アドリブで笑いを誘ったり、ちょい役で出ていた若かりし頃の笠智衆の登場場面では何気ない突っ込みを入れたり。活動写真弁士ってなかなか興味深い仕事であり、また重労働です。サイレントピアニストは場面場面でどのような音を流すべきか考えながらアドリブ(なのかな?)でピアノを演奏する仕事でこれも凄いですよね。弁士とピアノ生演奏付きの無声映画、これ病み付きになりそうです。
台詞なしの演技、子供たちも含めて皆生き生きとしていて(活弁とサイレントピアノの助力もあってですね)ホロリとさせられたり、考えさせられたり、さすが評判の名作でした。父を尊敬する息子たちがサラリーマンとしての父の現実、立場(上司にペコペコしたり媚を売ったり)を見せつけられショックを受けるという話なのですが、かつて息子でありそして父親でもあった僕は自分と重ね合わせて考えさせられたり懐かしく思ったり。時代は変われど何も変わらないものってたくさんありますね。
余談ですが、子供たちがたくさん出ていたので、第二次世界大戦で亡くなった方もいるんだろうななんて鑑賞中思ったのですが、観賞後にスマホで確認したら皆さん長生きされていたようで一安心しました。
第9回キネマ旬報ベスト・テン第1位。
Amazon Prime Videoで鑑賞(活弁:松田春翠)。
小津安二郎監督の描く子供は子供の実態をよく捉えていると感じます。子供は無垢だとよく聞きますが、実際はそんなことありません。悪く言えば悪魔みたいに感じることもある。
ですが本作の子供たちは純粋故、大人の社会に抵抗や憤りを抱いているように描かれている気がしました。子供の目線で見たら、大人の社会はヘンテコ。ハッとさせられました。
偉いってなんだろう。子供同士だと力の強いヤツがガキ大将になるけれど、大人になるとどうもそうではないらしい。強い子供の家来の父親が強い子供の父親の上司なのだから。
子供にも子供なりの世界がありますが、大人になると一気に世界は変わる。理不尽に耐えなければならない局面が来る。それが悲しいかな現実なのだから、生きていかねばならない。
コミカルでシニカルな傑作でした。