劇場公開日 1985年7月20日

「反戦平和映画の代表格だがアジアへの戦争責任論の欠如により薄れる存在感」ビルマの竪琴(1985) 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)

2.5反戦平和映画の代表格だがアジアへの戦争責任論の欠如により薄れる存在感

2025年2月27日
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鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

1 原作のテーマ
童話『ビルマの竪琴』のテーマにはいくつかの要素が混在する。
第一に、一高教師だった竹山が教え子を多数戦場に学徒出陣させざるを得なかった悔恨と戦死した彼らへの鎮魂。
第ニに、厭戦気分、平和主義の拡大とともに戦争指導者と日本軍への批判が高まる中、それに異議を唱え、戦死した兵士全体への鎮魂を捧げること。
第三に、敵国兵士との和解を通じて、ヒューマニズムに基づく戦後の平和を祈念すること。
こうした要素から「戦後社会の厭戦・嫌戦・反戦気分の中、平和憲法の精神と結び合い、非武装絶対平和、反戦文学の正典としての地位を占めるようになる」(馬場公彦『「ビルマの竪琴」をめぐる戦後史』)。

2 反戦平和映画の代表格
その映画化を見ると、1956年版は同時期の『ひめゆりの塔』『24の瞳』等の一連の反戦平和のメッセージを基調とした戦争映画の系譜の中に位置づけられるもの」で、こちらも反戦平和の正典としての地位を築く。
そして1985年版になると、戦争の要素は薄められ、「児童たちにも安心して薦められる、全編ヒューマニスティックな人間愛に彩られた映画に仕上げられ」、大ヒットを記録した(同)。

3 原作、映画の欠陥
ところが小説も映画も、こうした成功の陰で大きな欠陥のあることが指摘されてもきたのである。
金の星社版の伊藤始の解説は、次の3つの問題を指摘する。
①ビルマ僧の戒律は厳しく、楽器の演奏も禁じられていること。当然、僧侶姿の水島が竪琴をひくことは考えられず、1956年版の映画はビルマで上映禁止となった。
②原作だけだが、こちらでは三角山で負傷した水島を助けた少数民族が、実は人喰い人種だったというエピソード。ありえない話だという。
③ビルマ人は仏教の教えにより、欲がなく、働かないように描かれているが、豊かなコメの産地なので、働く必要がないというのが実情だった。

また、根本敬『物語 ビルマの歴史』は「『ビルマの竪琴』という幻想」と題し、①作品は上座仏教(小乗仏教)をまったく理解しておらず、竪琴をひく水島は破戒僧であること、②この宗教は遺骨に執着しないから、水島の遺骨収集、埋葬は理解できないこと、③登場するビルマ人が飾りに過ぎず、協力的だったり素朴な人間しか出て来ないが、日本人に苦しめられ、憎んでいる人間もいること――を挙げている。

4 アジアへの戦争責任論の欠如により薄れる存在感
そして決定打とも言うべきは、戦争文学、戦争映画なのに、戦場となったアジアへの戦争責任がほとんど取り上げられていないことである。
前述『戦後史』によれば、「『竪琴』に潜む戦争責任の自覚は、自国戦没者への敗戦責任を主眼に据え、敵兵への加害責任を副次的な関心とし、それらを防御・抵抗できなかった自らの不作為責任への『慙愧』の思いを中核とするものであった。(中略)だがそこには、戦場とさせられ、望みもしない犠牲を強いられた現地アジアの人びとに対する責任意識が欠落していた。そして、東京裁判においても、アジアの諸民族に対する戦争および植民地支配責任は不問に付されていた」という。
当然だろう。第二次大戦終結時、アジアはヨーロッパの植民地に舞い戻ってしまったのだから。原作小説もそれを受けた1956年版映画も、その背景にある東京裁判も、結局は先進国クラブ内の戦争責任しか問題にしていなかったのである。

この戦争責任論の欠陥は時代性に帰責して済む話ではなかろう。1985年版映画では人間愛が強調されたが、それはリアリズムを欠いた一方的自己愛の裏返しに堕してしまっているからである。つまり、戦争責任論はますます希薄化し、「自己憐憫的な慰撫のもたらす自責感の麻酔作用によって、侵略者の顔は悲劇の犠牲者の顔への塗り替わっていく」(『戦後史』)。

石坂演ずる隊長は、遺骨箱に向かって「お前の経験はわからない。しかし、お前の気持ちは分かったような気がする。つらい決心をしたもんだな。どんなにつらかったろう」と、水島に話しかける。隠れてそれを聞いていた水島は涙にくれる。そして観客も、戦友とともに帰国もできないまま、宗教的犠牲を覚悟する水島と、その後の遺骨収集の厳しい生活に同情の涙を流すのである。
ちょっと待った。これは何かが間違っているのではないか? つらかったのは日本兵に食料等を略奪され、泰緬鉄道建設等に駆り出された挙句、膨大な犠牲者をだしたビルマ人や英国軍兵士、捕虜たちだったろう。

こうした現実を無視して、単に「反戦平和だ、ヒューマニズムだ」はないだろう。日英の敵軍同士が歌を唱和するだけで和解できるのは安直すぎるだろう――そうした空疎なお花畑的平和主義が敬遠されて、現在では本作は存在感を薄めているという。当然かと思う。

徒然草枕