「舞踏会の狂騒とダム工事現場の喧騒。新旧の対比のなかで展開する、どろどろとしたメロドラマ。」高原の情熱 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
舞踏会の狂騒とダム工事現場の喧騒。新旧の対比のなかで展開する、どろどろとしたメロドラマ。
あけましておめでとうございます。
本年1本目は、シネマヴェーラの「ヌーヴェル・ヴァーグ前夜」特集から。
朝、録画してあったウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを観てから家を出たので、どうせならオフュルスの『輪舞』あたりやってれば良かったのにと一瞬思ったが、いざ『高原の情熱』を観てみたら、こちらもれっきとした「舞踏会」映画で、シンクロニシティにちょっとびっくり。
「高原」といいながらも、舞台は山あいにある、周囲から完全に孤立したホテル。
周囲は見渡すかぎり山ばかり、そこを曲がりくねった道が縫って走っている。
いかにも荒涼として寒々しい、どんよりとした風景だ。
しかも間近で大規模なダム工事が行われていて、ガンガン発破がかけられている(笑)。
清里みたいな避暑地を舞台にしたラブロマンスを想像してたら、おおいに肩透かしを食らう。
ホテルは、一見ロングステイ向けの、平和で落ち着いた宿に見える。
だがその実態は、世の中からはみ出した人々が巣食う、敗残者たちの吹きだまりだ。
あるいは、古臭い「懐かしきパリ」の思い出にしがみついて生きる連中のための、時の止まった避難所とでもいうべきか。
長逗留の老人は、近年のパリの変容ぶりも知らずに、エッフェル塔へのクレームの手紙を書き続ける。ホテルの女主人クリクリは、かつて関係のあった富豪のパトリスに執着して、わざわざここまで追ってきて居ついてしまった元バレリーナだ。そのパトリスのほうはといえば、表面上はいかにもジェントルマンに見えるが、実際は昏い過去を背負うエキセントリックな男で、この片田舎で誕生日に仮面舞踏会を開くような、「貴族の化石」の如き形骸化した存在である。
そこに、ひとりの美しい女性ミシェルがやってくる。
彼女には、ここで待ち合わせている男がいるらしい。
次いで、ダムの若い建築技師ジュリアンがやってくる。
彼は間違ってミシェルと同じ部屋に案内されて、暗闇のなかで成り行きでキスしてしまい、恋に落ちる。
そのあと、彼女と待ち合わせていた舞台芸術家ローランが合流してくるが、彼は新しい劇が大失敗に終わり、自信喪失のなかアル中ぶりを悪化させ、自暴自棄になっていた。
一人の女性をめぐって、三人の男がどろどろとした駆け引きを展開する前半のメロドラマは、しょうじき退屈でうんざりさせられた。さらに嫉妬で絡んでくるホテルの女主人クリクリの面倒くささにも、いい加減いらいらさせられる。
まず、ヒロインのミシェルがダメ芸術家のローランを愛している理由がよくわからないうえに、何を考えているかつかみがたいキャラなので、きわめて共感性に乏しい。
さらに、男三人がヒロインの想いそっちのけで、勝手に暴走しまくっているのが痛々しい。
ヒロインの芸術家への恋も、貴族と技師のヒロインへの恋も、女主人の貴族への恋も、すべてが一方通行で、片思いというよりは若干ストーカーっぽい空気まで漂っている。
誰が報われようが、比較的どうでもいいと思われる恋のさや当ては、観ていてあまり面白くない。
だが、終盤にはいって舞踏会が始まってからは、がぜん面白くなった。
壮大な邸宅で展開される、大規模な仮面舞踏会。
とにかくセットが素晴らしい。群舞が華やかで、カメラワークも流麗。
観ていて、純粋に映画として目に楽しい。
この究極の「感情増幅装置」を通じて、4人の恋情と憎しみはヒートアップしてゆく。
ここから運命の歯車は、急速に回転しはじめるのだ。
なんで、こいつに○○させるんだ?? という当たり前の疑念はさておき、
終局における、ダム工事現場の禍々しい雰囲気は圧倒的だ。
思えば本作では、冒頭から常に恋愛物語に絡める形で「古い貴族的な文化」と「新しい工業文明」が対比させられてきた。
何度も繰り返される発破の爆音と振動は、旧弊な伝統的なフランス階級社会を脅かす、破壊と変革の足音に他ならない(エテックスの『健康でさえあれば』とちょっと被る「音」と「振動」の使い方)。
作り手は、必ずしも近代科学文明を「善きもの」としては描いていないが、少なくとも「古き良きパリの文化」のほうは、それ以上に胡散臭くデカダンなものとして描出されている。
「旧」の象徴たる舞踏会から、「新」の代表としてのダムに舞台を移して、物語にカタストロフィが訪れる。
ハムレットを吟じて暴れまわるアル中の高等遊民。
狩猟と舞踏会が生きがいの変態チックな大富豪。
新たな技術でインフラ整備に携わるガテン系の若者。
誰が最終的な「勝者」になるかは、もはや自明のことだ。
決してハッピーエンドとはいえない、「陰り」のあるラスト。
それは、残された二人の未来が「カタストロフィの結果」であって、
必ずしも、自ら選び取った「結末」ではないからだろう。
決してバランスのいい映画ではなかったが、突き放した人間描写には妙なクセがあって、終盤にいたってなんとはなしに引き込まれている自分がいた。
陳腐に始まったろくでなしたちの古風なメロドラマが、「舞台装置」の力でドラマツルギーごと異様にゆがめられ、やがて奇妙な着地点に至る過程は、なかなかに面白かったと思う。