夜のたわむれ

劇場公開日:1967年2月4日

解説

マイ・セッタリングが自ら原作小説を書き、脚色にデイヴィッド・ヒューズの協力を得て、監督した。撮影はルネ・エリクソン、音楽はヤン・ヨハンソンとゲオルク・リーデルが共同で担当。出演は「沈黙」のイングリッド・チューリン、同じくヨルゲン・リンドストロムのほかケーベ・イエルムム、レナ・ブランディンなど。製作はサンドリュース。

1966年製作/スウェーデン
原題または英題:Night Games
配給:MGM
劇場公開日:1967年2月4日

あらすじ

青年ヤン(K・イエルムム)は、まるで城のような彼の家へ許婚のマリアナ(R・ブランディン)を連れて来た。だが彼は彼女をすぐ家の中へは入れず、目隠ししてポーチに待たせ、自分だけ入った。そこには二十年前の彼の少年時代の幸福な記憶が、わけても彼が何よりも愛した美しく奔放な母イレーネ(I・チューリン)の思い出が、いっぱいに詰っていた。ヤンは今までその思い出の中に生きていた。それは彼だけのものであり、人には見せたくなかったのだ。階段をのぼって行く彼の脳裏に鮮かによみがえってきたのは母の出産のシーンである。母は産褥のまわりにいつもの遊び仲間を集め、音楽を奏させ、陣痛にたえていた。部屋は異様な雰囲気に充満していた。気丈な母が激しく身もだえするのを、ヤン少年(J・リンドストロム)は伯母に付き添われて見ていた。子供は死んで生れた。病院へ運ばれる母を、少年は窓からじっと見送った。その同じ窓から待ちくたびれたマリアナが、雪の庭の中に立っているのが見えた。ヤンは彼女を呼び入れ、家の中を案内して回った。マリアナはヤンを愛し、彼が母のかげや、この家から脱出し、自分自身を見出すように願っていた。そのための手伝いをしようと懸命であった。ふたりは結婚した。ヤンは花嫁を母のベッドに抱いて行ったが、またしても母の思い出がふたりの愛を邪魔するのだった。ある夜、ヤンはパーティを開き、宴たけなわの頃家を爆破すると言い出した。やがて大音響とともに家は木端微塵に吹っ飛んだ。これはヤンとマリアナの新しいスタートであった。

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スタッフ・キャスト

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映画レビュー

4.5 爆破のカタルシス

2026年1月30日
iPhoneアプリから投稿

現在と過去が同一ショット内で相互参照されていく過程で、主人公の人生を貫くトラウマの形が露わになっていくという、物語と映像が見事に協働した傑作だった。ギリシャのテオ・アンゲロプロス然りポーランドのイエジー・スコリモフスキ然り、欧州の辺境からはなぜかこうした長回しのテクノロジーが同時多発的に発生している。

奔放な母とその愛を得られなかった息子という組み合わせはいくらでもナイーブな方向に堕落していけるはずなのに、物語が亢進するほどにむしろ希望へと上向いていくのが新鮮だった。

これは現代パートにおける主人公のパートナーの存在が大きい。彼女は母性愛の欠落を穴埋めしようとする主人公の潜在的な欲望をキッパリと跳ね除け、あるべき二人の関係を懸命に模索する。彼女が幼き日の主人公の真なる精神的支柱となっていた叔母さんの転生であることは自明だろう。

一方で出来の悪いフランス映画のように主人公を手酷く見捨ててどこかへ消え去ってしまわないというのもいい。女に去られた男の自己憐憫ほど見苦しいものはない(それは文学の世界でやってください)。そのうえ発狂した主人公が自殺でもしたら興醒めこの上ない。

二人の関係が破綻を迎えなかったからこそ、二人は、そして我々はあの衝撃的な結末へと辿り着くことができたといえる。過去という呪縛(=物語)と豪勢な屋敷という空間的違和(=映像)が文字通り一挙に吹き飛ぶ爽快この上ない幕切れだった。

上流階級の描き方に関しては、ブニュエルやパゾリーニのような悪意からは一定の距離を保ち続けたことがかえって功を奏していたように思う。爆破予定の屋敷から金目のものをありったけ抱えて逃散していく富豪たちの姿があくまでポップの境位に留まっていたからこそ、爆破そのもののカタルシスが損なわれずに済んでいた。

それにしても調度品のチョイスや位置が非常によかった。紙で作った屋敷とそこに放たれるマッチ、顔が描かれた半熟卵、部屋を駆け回るオウム、地下室の泉に沈んだ宝箱、そして屋敷じゅうに張り巡らせられたダイナマイト線。

マイ・セッタリングの映画を観られる機会がほとんどないことは非常に大きな損失であると思う。

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因果