バード少将南極探険
解説
バード少将の南極探検隊に加わってその探検の実況を撮影した実写映画で、パラマウントのニュース班専属の撮影技師ウィラード・ヴァン・ダーヴィーア氏とジョゼフ・ラッカー氏とが撮影したものを同社ニュース部長エマニュエル・コーエン氏が編集し、ジュリアン・ジョンソン氏が字幕をつけ、マニー・ベーア氏選定の伴奏楽と、フロイド・ギボンス氏の説明とが付せられている。但し日本版では松井翠聲氏の説明が吹きこまれる筈である。
1930年製作/アメリカ
原題または英題:With Bird at the South Pole
ストーリー
1928年8月25日リチャード・イー・バード少将の率いる南極探険ー隊は「シティ・オブ・ニューヨーク」号に乗込んでニューヨーク港を出発した。途中ニュージーランドのダネディンに寄港して準備をし、糧食補給船「エリーノア・ボーリング」号を待ち合わせて、12月2日南極へ向った。暴風と流氷とに苦しめられながら、同25日初めて南極大陸の一端ロッス海に到着した。一行はここに上陸して第一の根拠地を建設した。そこは鯨湾内でアムンゼンが1911年の南極探険に根拠地とした地点から程遠くなかった。バード少尉はここを「リッツル・アメリカ」と命名し、42名の一行が十数ヵ月を暮すべく仮の住居およびニューヨークと直接通信を交換し得る無電局とが建設された。根拠地の設備が完成すると「シティ・オブ・ニューヨーク」号は結氷季前にここを引上げなければならなかった。ニューヨークから1万1千マイル零下22度の酷寒の地にペンギン島と鯨と海豹とを隣人として彼等の新しい生活が始められた。かくて橇隊と飛行機隊とによって奥地への探険が数回敢行された。探険の結果南極大陸中にロックフェラー山脈、マリー・バード島等が発見された。1929年3月南極の冬は近づき、太陽は水平線の彼方に没して4月から9月まで半年の常闇が一行を包んでしまうのであった。一行は探険の準備にいそしむよりほか何事をなす術もなかった。同年10月南極の春が訪れる。長夜の闇が明けて暁の光が射した。11月に入って愈々根拠地から南極まで往復1600マイルの探険飛行が敢行されることとなった。それに先立って一行のグルード氏は不時着陸その他の事故に備えるため犬橇隊を組織して出発した。11月28日バード少尉はフォッカー単葉機「フロイド・ベネット」に搭乗、操縦者ベルチェン氏、無線技師ジューン氏、測量係マッキンレー大尉及びパ社撮影班が同乗して極地に向った。クキーン・モード大山脈を越えるため1万5千フィートの高度を保って飛行したが猛烈な逆風に遭ったので食糧品を投棄しつつ遂に機は南極の真上に達した。少将は機を2千500フィートまで下降させて星条旗を投下した。機はやがて帰途に就いたが再び暴風中に難航を続け、滞空20時間後翌29日無事根拠地に到着した。やがてグルード橇隊も帰還した。1930年2月18日「シティ・オヴ・ニューヨーク」号は鯨湾に現れた。隊員は14ヵ月間の南極生活を終えてロッス海を抜錨し、3月10日ダネディンに寄港、6月19日にニューヨークに帰着した。
スタッフ・キャスト
- 撮影
- ウィラード・ヴァン・ダーヴィーア
- ジョゼフ・ラッカー
- 編集
- エマニュエル・コーエン
- 作曲
- マニー・ベーア
- 字幕
- ジュリアン・ジョンソン
- ナレーション
- フロイド・ギボンス
受賞歴
第3回 アカデミー賞(1930年)
受賞
撮影賞 |
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