劇場公開日 1967年6月10日

「本当にフェミニストに攻撃されるべき作品だろうか」じゃじゃ馬ならし(1966・アメリカ) あき240さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0本当にフェミニストに攻撃されるべき作品だろうか

2019年3月14日
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鑑賞方法:DVD/BD

カトリーナ
2005年にニューオーリンズに大災害をもたらせたハリケーンの名前も同じ
欧米人にはシェイクスピアは一般教養であるからその名を聞いただけで猛烈なハリケーンだと想像できたろう
たまたまリストの名前がそれに当たっただけでもこの名前のイメージはそれほど強い

エリザベス・テイラー35歳
まだまだ美しい
しかし妹のビアンカを箸が転んでも可笑しい十代の娘としたことで、行き遅れの年増感が強調されている

原作初め本作もまた時代遅れの女性蔑視の産物とフェミニストから攻撃されている
男が女性を男性の都合の良い存在に強制する事を賛美している内容であると
確かにペトルーチオがカトリーナにすることは、今風にいえば精神的虐待でありDVであると非難される事だ

しかし本作では若干味付けが異なるように思える
というのもカトリーナはペトルーチオには閉口していて表面的には従っているだけで内面は全く変化していなかったからだ
しかしビアンカとホルテンシオの合同結婚披露宴でカトリーナは初めて自らの愚かさに気づくのだ

年端の行かない男女の子供達がじゃれあっている内に女の子が男の子を馬乗りになって懲らしめロバにまたがる
その様子を見て自分と同じだ
自分はあの年端の行かない子供と同じことを35にもなって結婚してもしていると気づくのだ
我が儘放題に甘やかされ、年の離れた妹に両親の愛情を横取りされたと拗ねて関心を集める為に駄々をこね暴言と暴力を振るい暴れまわるただの大人の子供だと
その時彼女のマインドセットは劇的に変わるのだ
ビアンカは何もできない甘やかされ放題の可愛い子ぶり子しているだけの女で自分と逆の見え方をするように振る舞っているだけだと
ホルテンシオの嫁になった未亡人はまるで自分と同じミニカトリーナであると
変わってしまったマインドセットを通してその二人の言動や振る舞いを見た時に自分の愚かしい過ちと浅ましさに恥じらいを急に覚えたのだ
この解釈は素晴らしい現代的なものだと思う

そしてラストシーンに彼女に引き出されたその二人の表情は、彼女と共にマインドセットが変わった観客の私達にも浅ましいものに見えるのだ
特にビアンカ役の女優は見事にそれを表現してあの清純そうな娘の正体はこれかと

そしてカトリーナのぶつ演説は、男性を立てる女性の役割を説くと表面的にはみえるが果たしてそうか?

男女の共同参画、両性の共同こそが何より重要であるとのメッセージではないのか
それには男女が互いに尊重しあい、互いを立てることから始めるしかないのだと
キス・ミー・ケイトと台詞とともに初めて唇を重ねた時、カトリーナの精神は真に解放され成長していたのでは無いだろうか

そしてペトルーチオもまた、始めは金目当ての結婚に過ぎなかったにもきわらず、この時彼はカトリーナを初めて女性と捉え真正面から向き合ってこころから彼女を愛し始めたのだ

あのキスシーンこそは、この二人が本当の夫婦になった瞬間だったのだ

この解釈もまたフェミニストから攻撃されるのだろうか
生きにくい世の中だ

あき240