エル・スールのレビュー・感想・評価
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かもめの家 〜 父を見つめていたあの頃
1957年、スペイン北部の田舎町で暮らす医師の父、元教師の母、15歳の私。
幼い頃から父を慕っていた少女エストレリャは、父の深い苦悩を知る。少女から娘へ。
映像は絵画のように美しく、中でも父親と娘が幸せに満ちた表情で踊るシーンに魅了された。
映画館での鑑賞
女として父を見ていた娘
10代の頃見たが、どんな映画だったか思い出せない。
父と娘のハナシだった、気の良いおばちゃんが出てきた、思い出すのはそれくらい。
なので、今回再見しました
画面が光と影のコントラストを強調した絵画のようで美しい
薄暗いスペインの風景、室内の佇まいがこころよく落ち着きます。
大きな窓に隔てられた外は雪だが、母と二人で過ごす居間のテーブルの、温かくここちよさそうなこと。
ファザコンは間違いないですが、エストレーリャが父を見る目が「娘」というより「女」の目線のようで、私には気持ち悪かった。
自慢の父が本当に愛していたのは自分ではなく、「イレーネ・リオス」。
その事実と、父が親ではあるが「男」であることを思い知らされた思春期の少女のショックはいかばかりかと思う。
ピカソが「ゲルニカ」を表したように、スペインの内線は惨く過酷で、肉親や親しい人たちもそれぞれ敵味方に分かれて争う悲惨なものだったらしい。
父は内戦で心裂かれてしまったようで、妻にも娘にも癒やされることが無かったようだ。
妻や娘に対してすら他人行儀で心を開かず、無理難題は言わないが相手を思いやることもない。自分以外はすべて「他人」のようで異様な感じがした。
孤独に耐えかねてそういう自分を変えたかった、遅まきながら娘と触れ合おうとしたのかもだが、娘にしたら今更そう言われてもね、という反応は、まったくごもっとも。
父は孤独に絶望したのでしょう
それでも、娘に残すであろう傷のことは考えなかったのか、と思う。
これでは娘は自分のせい、と思って後悔するし自分を責め続けるだろう。
病気になってしまうのも当然だ。
やはり彼には妻も娘も他人でしかなかったと思う。いくら娘に拒絶されたにせよ。
夫には別に意中の人がおり、慈しんで育てた娘には「自分を世話してくれるヒト」程度にしか認識されず、さらにあんな形で夫と死別の後、娘は夫の故郷に行く
お母さん、気の毒すぎ。
長いこと「イレーネ・リオス」という名前が時々浮かんできて、誰だったか思い出せなかったが、この映画からだった、というのが一番の発見でした
映画の内容を思い出せなかったのはきっと、当時の私が寝てしまってほとんど見てなかったんだろうと推測
個人的にミステリー映画になっていました
そして今回も睡魔との戦いだったわ
蛇足ですが、エストレーリャの幼少期を演じた子役が、「大草原の小さな家」のローラに、少し似ていた、と思いました。
娘の瞳に映る父親
「ミツバチのささやき」「瞳をとじて」に続いて「エル・スール」をヒューマントラストシネマ渋谷で。劇場で観るのは三十数年振りである。
3週間の間にビクトル・エリセの50年3本を
スクリーンで観る事が出来た。
光と影の演出が「ミツバチのささやき」よりも際立っていたと思う。
3作とも娘と父親の関係を軸に、映画が絡むのは同じだ。映画が上映されているスクリーンに映っているものがそれぞれ大きな意味を持つ。
そして、その上映されている場所が、「ミツバチのささやき」の巡回上映から「エル・スール」では映画館に変わり、「瞳をとじて」では閉館した映画館になってしまうのである。
年齢が上の分「ミツバチのささやき」のアナよりは「エル・スール」のエストレリャの方が父親に近づく。しかし、「ミツバチ〜」から50年後のアナでさえ父親とは解り合えないのだ。
父親は生命を絶ち、娘は父親がかつて捨てた南の地へと向かう。製作されなかったその後の部分で「南」へ行った後の娘は何を見て、何を感じたのだろうか。
最近、私の誕生日には3才から映画館に連れて行った娘のオゴリで一緒に映画を観ている。今の娘の瞳に父親の私はどう映っているのだろう。
ふたつのおくりもの
娘・エストレリャが回想しながら綴るのは、内戦で深い心の傷を残す父・アグスティンの姿。
そして家族のそばで自身も成長しながら変わっていく様子。
戦火が消えても燻りは続き、蝕まれたものが漂う。
その状況下で葛藤もありながら大切にする文化、家族の日常、成長や老い、こどもの世界と大人の世界。
エリス監督が紡ぐそんなシーンのひとつひとつは光と影を操られた絵となり、そこに機微を浮かびあげる。
惹き込まれ佇むうちに迎えるラストが放つものは、前作の長編「ミツバチのささやき」と同じにおいが立ち込めるのだ。
許されることのない醜い戦争。
しかし、その爪痕にも確かに開かれていく新しい〝目〟があり、困難から立ち上がろうとする〝息吹〟の力があること。
それを見失わないことは未来につながる希望だということ。
本作も重厚でゆったりした雰囲気のなかに鋭く抉る視線が忘れない印象を刻む。
そして幾度となく人の心の温かさでくるまれると、運命に翻弄された人生を余計にくっきりと感じるのだ。
それは震えるほど切ない。
だからなのだろうか。
私もただひとつの希望にすがるようにこの物語を胸にしまいこんだのだった。
………
スペイン北部の一軒家。
母娘がくつろぐ窓辺から雪が積もった庭がみえる。
南(スペイン南部)では雪が降らないのよと言う母との会話から、エストレリャは父の故郷にまつわる過去を知ることになる。
自分の誇りであり大好きな父の知らない部分にエストレリャの困惑は広がる。
薔薇をはわせた大きなパーゴラ。
南をみつめる風見鶏のかもめ。
タイル使いのパティオは中央に水辺を配し縦長にくるりと植物や置物で囲む。
そこに浮かぶ手造りの小舟。
ポストカードで何度もみた南部セビリアのイメージをこの家の庭に感じ、父・アグスティンの美しい郷愁を信じてきたのに。
屋根裏部屋に鍵をかけ籠る父が抱えている孤独。
それはエストレリャにとって、凍てついたおもちゃの小舟のように哀しげに思えたのではないだろうか。
久々に再会した父の乳母ミラグロスが、今は幸せか?と尋ねた時もだ。
父は頷くが見抜かれたのを察し念押しには答えられなかった。
その後ろ姿はエストレリャには違和感として伝わったようだった。
母やミラグロスから聞く父の過去、祖母から感じ想像するもの。
それをもとに探るエストレリャはやがて新たな謎に出会う。
町でみかけた自分の知らない父の姿。
エストレリャは父の秘密を確信する。
そして、父は昔の恋人からの返信を読む。
厳しい文面に混在するかつての愛と絶望と時間。
調律中のピアノの不穏な音のように、家出を繰り返すようになった父が母と喧嘩する声がする。
父がだんだんと遠い存在になっていく。
本音を知りたいエストレリャに対し、体裁を気にし自分を子ども扱いする母への怒り。
こっそり屋根裏部屋に戻り、殻に閉じこもる父への幻滅。
そして、その父の深い悩みをようやく理解したときの涙は、ただここから逃げたいと思う気持ちにつながる。
長い沈黙の時間を破り父がエストレリャを食事に誘う。
そこで「思ったまま何でも口にする」ことを羨ましいと言う父に、遠慮せず質問したエストレリャ。
父は動揺、その後この後の授業をさぼれないかとの願いに呆れつつ彼女は断り席を立つ。
おそらく父は「思ったままを口にしようと」する最後の覚悟をしていたのだ。
しかしそれも叶わず。
ボーイフレンドについて「気をつけて」と見送った父の精一杯の仕草に胸が痛くなった。
父はひとり、戻れない時間を思い返したのだろう。
昔の恋人、親、妻や娘。
みんなの心を遠くに置き去りにしてきた自分のことを
娘が覚えていてくれた祭りの日の音楽を聴きながら。
でも、それももう確かめることもできない。
すっかり大人になっていた娘に父が遺したものは、楽しくて仕方なかった時間を思い出す大切な振り子。
そして答えを出さずに終えた沈黙のゲームのヒント。
エストレリャは旅立つ。
ふたつのおくりものをカバンに詰め、故郷を捨てざるを得なかった父の人生を訪ねに。
私のこれからのためにも、私だけが連れていけるEl Surへ、父と。
修正済み
父はなぜ
絵画のように美しい景色。
並木道を通り、蔦バラで覆われた門をくぐるとかもめの家。父は国境と言う。
エル•スールとは、スペイン🇪🇸語で"南"という意味だそう。
スペイン内戦で南に住んでいたエストレリャの父アグスティンは、その父と反目というより敵対して逃げるようにこの地に辿り着いた。病院に勤務する勤務医である。
また、振り子を使って色々予言する力も持つらしい。
母は、内戦の報復で教職を追われたと説明される。
エストレリャの初聖体拝受の際、南から祖母と父の乳母がお祝いに来てくれた。本当に花嫁のように白くて美しい姿だった。人前に出たがらない父も後ろで見ていてくれて、後、エストレリャと踊ってくれた。
父の部屋で何度も同じ女性名を書いた封書を見つけ新たな父を発見する。
偶然帰り道父の愛車バイクを映画館前で見つけ貼ってあったポスターに父が書いていた名前を見つける。受付でチラシをもらいその女性というか女優を確認する。父が出て来るのを待ち、カフェに入って行き手紙を書いているのを見て父に合図を送る。
父は娘に見られて一瞬動揺した。
その女優の作品を観ていた父、娘にはごまかす。
その女優からの返事。
なぜ今頃?4回出演したうち3回殺される役よ。
1年前に辞めた。セビリアに逃げている。もう手紙を書いて来ないで欲しい。 と。
父はどう思ったか。
母と赤い毛糸をくりながら🧶話をする。
写真館にはエストレリャの写真も飾ってある。
なぜか並木道の木に白いペンキが塗ってある。
時々、父は、帰って来ない日があった。
ある日、学校にいるエストレリャを呼び出し、グランドホテルで昼食をとろうと誘う。
一通り食事を終えた後、娘からあの手紙を書いた日のことを伝えられ、女性のことも尋ねられ動揺する父、洗面所で顔を洗う。
席に戻った父は、娘に
「学校をサボれないか?」と聞くが、
娘は学校に戻る。
父は、「思ったまま何でも言えることはいい」とも言っていた。
その晩も父は帰らず、‥‥
あの女性に長距離電話したらしいが。
永久に帰らず‥‥、持ち物皆家に置いていた。
娘は後悔し、
父が過ごしていた屋根裏部屋に行きベッド下に隠れる。見つけた母は心配ばかり。
しばらくして床に伏せるエストレリャ。
南に療養しに行くことになる。
娘の父へのまなざし
主人公の少女はお父さんが大好きだ
初聖体拝受の日を迎え儀式の後に
家族の前で父と躍る少女はとても嬉しそうで
幸せそうだった
私はこのシーンを観て泣いてしまった
ところが、あることをきっかけに
父への感情が変わっていく
場所も北の国だそうだが、なぜか物寂しい気配が
全体を取り巻く
少女の目を通して場面 場面を描くさまは
自分も主人公になった気分だ
しかし何故こうになってしまったのは
内戦と言う恐ろしい出来事だ
争いは幸せを踏みにじる
難しい
映像が綺麗。
南に置いてきた父の思い出をこれから「見に」行く。
そうして物語は終わる。
静かな空間を描いていて、何となく雰囲気が「ゴッドファーザー」に似ている。
映像ひとつひとつが絵画のようで美しい。
しかし内容が難しすぎて私には分からない。
父親の自殺の原因は娘に「南の恋人の存在」がバレたから?
色々解釈を読み、何度も見ればきっと見えてくるものがあるのかもしれない。
少女は成長して“女”になりつつある
【ファーストシーン】
画面は真っ暗だ。微かに時計の時を刻む音が聞こえ、小鳥のさえずる声も聞こえて来る。
やがて少しずつ画面に光が入って来ると、どうやらベッドらしきモノが確認出来る。
すると突然犬が吠え始める。
「アグスティン!」
母親の慌てる声が響く。
《フェードアウト》
《フェード・イン》
ゆっくりと部屋に朝陽が挿し始める。ベッドには主人公であるエストレリャが寝ていたが、彼女にはもう父親は戻って来ないのを、枕もとに父親が置いていった振り子から感じる。
部屋の明るさは増し、窓辺から挿す光で部屋の内部が完全に見える。
振り子を見つめながらベッドの縁に佇むエストレリャ。
まるでフェルメールの絵画が動いているかの様な美しさに溢れている。
これで何度目だろう。特集上映から、正式上映。名画座、深夜のテレビ放送、ビデオ鑑賞を含めて7度目かそれとも8度目か。
この映画は主人公であるエストレリャのナレーションに沿って父親の思い出が語られる。
冒頭から引き続き、父親による振り子のマジックを語るまだ幼いエストレリャ。父親の部屋で振り子の振り方を習い、水脈を当てる父親。
この時にスカートを広げコインを受け取る。
この場面ではミレーの絵画の構図を思い浮かべさせる。(確か公開当時はジョン・フォードの『わが谷は緑なりき』との類似性の指摘があったと記憶している)
続いてのナレーション場面は初聖体拝受の前日。父親が棄てた“南”から祖母と父親の乳母がやって来る。
ここまでのナレーションは、父親の振り子も、祖母と乳母ミラグロスも、どんな人かを観客に知らせる為のナレーションになっている。
エストレリャは父親には“南”を棄てなければならなかった秘密があるのをミラグロスから教わり、同時に“南”を身近に感じ、ミラグロスと長年に渡り連絡を取り合う。
「来てくれるかなあ」とエストレリャ。
元来は教会には来ない父親。ミラグロスと交わした会話からスペイン内戦によるフランコ政権化から、父親は“南”から追われ、まだ見ぬ祖父との確執を知る。
肉親・知人・隣人が憎しみ殺し合ったスペイン内戦。北に住む幼いエストレリャにはまだよく理解出来ない。
初聖体拝受当日。教会には来ないかも知れない父親に、着飾った自分を見て貰いたいから走るエストレリャ。父親が放つ空気を切り裂く銃砲の音。
ハッとするエストレリャの顔にオーバーラップで教会の場面が被さる。
教会の隅から見守っていた父親が表れる。
この時のオメロ・アントヌッテイの登場場面がどこかレンブラントの絵画を見る様だった。
駆け寄るエストレリャは白い衣装からドガが好んで描いた少女の絵画の様です。
この教会の場面は計3回オーバーラップがあり、3回目が家族のパーティーシーンで、椅子に掛けられた白い衣装に被さる。
父親とダンスを踊るエストレリャ。
やや下から映される美しいこの場面に流れる音楽は、ラスト近くのレストランで父娘が最後に会う場面に繋がる。
そして遂にエストレリャは父親の秘密を知ってしまう。
ここからエストレリャは少しずつ少女から女の子へ。そして女の子から女へゆっくりと成長して行く事になる。
父親が“南”から大事にして来たイレーネ・リオスとゆう女性の存在。
そのイレーネ・リオスをエストレリャは知ってしまう。
映画館で父親が観ている映画にイレーネ・リオスとゆう女優が出演していた。
この辺りからエストレリャのナレーションによって展開される回想映画で在りながら、父親の目線でもストーリーが展開され始め映画として違和感が出て来る。
父親は映画を観た興奮からか思わずカフェで元恋人へ手紙をしたためる。この時と、その後の返事は明らかに回想映画としては有り得ない。しかしこの手紙を書いている時に父親を見つけたエストレリャは窓越しに父親と眼と眼を見つめ合う。
有り得ないのだが、回想者であるエストレリャが画面上に映っている為に違和感は薄れている。
それより何よりも、この窓越しの場面の何とゆう美しさだろうか。
構図的にはマネの絵画を想像してしまいます。
観方によっては、父親の秘密を知った少女が初めて女への一歩を歩んだ瞬間だったのかも知れません。
続く手紙の返事を父親が読む場面はどうだろう。
ここにはエストレリャは居ない。この後で父親と 母親がなじりあっているのを聞くエストレリャ。以前何も考えずに母親に「イレーネ・リオスって誰?」と聞いてしまった事が原因なのかと自分で勝手に決め込み、映画館で貰ったチラシを燃やす。
この場面こそが少女が女として成長して行く過程の様な気がします。
その前にも父親と母親は一度なじりあう会話が聞こえていたが、今回は自分の責任を感じているエストレリャ。
そう考えるとイレーネ・リオスの手紙の返事の場面は、そんなエストレリャの気持ちを強調する為に必要かも知れないと、今回初めて少し感じた。
現にこの後エストレリャは女としての嫉妬心を露わにする場面が在る。
またしても家を出る父親。涼しい顔をして帰って来た父親に対して抗議する様にエストレリャもその存在を消そうとする。
沈黙には沈黙で返す父親。
この場面の“沈黙ゲーム”こそは、男と女の嫉妬と裏切り、確執のぶつかり合い・せめぎ合いに他ならず、またナレーション無くしては観客には「一体何がどうして、どうなっているんだ!」と疑問を抱かせてしまう場面です。
そしていつしかエストレリャは少女から女の子へと成長する。
この時に映画史上大変に美しい時間経過を観客に知らせる名場面がある。
自転車を漕ぎ“国境”を画面奥まで進むエストレリャ。追い掛ける犬のオーバーラップ。
枯れ葉が“国境”一面に舞い広がっている。“国境”の画面奥から成長したエストレリャが帰って来る。犬は大きくなっている。
何とシンプルでいて深みの在る場面であろうか。
実に素晴らしい!
そして、いつしか少女から女の子に成長したエストレリャにとって父親の存在は少しばかり疎ましい存在となっていた。
ラスト間近レストランで親しい男の子との関係を聞かれ、露骨に気分を害すエストレリャに最早少女としての面影は無い。
少女は成長して“女”になりつつあるのだ。
やがて“あの時”の「エン・エル・ムンド」の調べが聞こえて来る。
「覚えてる?」と父親。
父親の思いは決まっていた。
それを理解出来ず、今となっては父親が残っていった振り子を見つめ直しては、あの時の父親の残した言葉の真意が測りかねて、後悔の念に駆られるエストレリャ。
だからこそ父親が残していった“南”からの“想い出”をバッグに詰めるエストレリャ。
今まさに彼女は“南”を知ろうとする。
ラストシーンで、カメラ越しにスクリーンを見つめている観客に対して、1人の女として鋭い眼光で見つめ返すエストレリャ。
監督のビクトル・エリセはインタビューに対してこう答えている。
「『エル・スール』は未完の作品です。」
何でも経済的な理由から撮影が中断してしまい、その後の撮影が困難になってしまったのだとか。
肝心な“南”が描かけなかったのもその、理由だと…。
でもMr.エリセ。
私はこれで充分に名作だと思います。
何度も何度も観る度に感じます。
今日で確信は更に深まりました。
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