河(1951)のレビュー・感想・評価
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河の流れで首尾一貫させた味わい深い作品
印象派の画家、オーギュスト・ルノワールの息子、ジャン・ルノワールが監督した1951年の作品。
インドのガンジス川流域で暮らす、イギリス人の少女ハリエットは、6人きょうだいの長女。ジュート麻の工場長の父や優しい母、様々なことを教えてくれる乳母のナンなどに囲まれて、伸び伸びと育ち、思春期に入りかけている多感な女の子が、本作の語り手で主人公。
毎日遊びにくる友達のバレリー、そしてアメリカ留学から戻った隣の家の幼なじみメラニーとは仲良しなのだが、ある日、メラニーの家にやってきた傷痍軍人のジョン大尉に対して、3人は三者三様の初恋に落ちる。
やがて、失恋や身内の事故により、ハリエットをはじめとした少女たちは、少しずつ大人になっていく…という話。
原作を元にした物語でありながら、全編インド撮影で、紀行番組のように当時のインドの風習が描かれているので、観た者は、そこに滞在しているかのような感覚になる。また、カラー作品のため、インドらしい色彩の美しさにも目を奪われる。
他にも、「明るく生き生きとした子どもたちの世界に対して、戦争での傷つきを抱える大人の男たちが、ある瞬間に見せる陰」とか、「イギリスとインドという二つのルーツの狭間でアイデンティティに揺らぐ、隣の家の少女メラニーの振る舞い」など、相反するものが、押し付けがましくなく、ごく自然に物語の一部として描かれていく。
個の人生を超えた、社会や歴史の流れなどをも感じさせる「ガンジス川の流れ」で首尾一貫させた、味わい深い作品だった。
放送大学231オーディトリアムで鑑賞。
<ここから、野崎教授のコメント備忘録>
・今作を一言で表すと「越境」がテーマになっている。
・フランス人のルノワール監督は、第二次世界大戦中にアメリカに渡り、ハリウッドで活躍する中で、本作を撮影。スタジオ撮影ではなく、現地での撮影を、現地スタッフと協力しながらつくりあげた。
・原作者が脚本も書いているが、監督と二人三脚で一から作り直した。
・重要な役割を演じる、弟ボギーは、原作者の甥。本作のプロデュースは、ハリウッドの生花店で、映画製作の素人。プロとアマチュアの垣根も越えた作品でもある。
・スコセッシ監督やエリセ監督が生涯ベスト10に選ぶなど、影響を与えた作品。また「大地のうた」を撮ったインド人監督、サタジット・レイに映画の道に進むことを促したのは、本作を撮影中のルノワール監督。
サタジット・レイの『大地のうた』を生むきっかけ
僕に取っては残念な事だが、この映画がサタジット・レイの『大地のうた』を生むきっかけになっているようだ。アプー三部作を僕は世界的な名作と認めている。
さて、
インドは第2次世界大戦後1947年に独立するが、正式には、英連邦王国から1950年1月26日に憲法が出来て共和制に移行する。この映画の上映直前の事だ。
だから、内容も植民地主義丸出しの映画になっている。
睡眠薬見たいな映画だったので、何回か見直し、やっと今見終わった。突っ込み所は多々あるが、要は演出家たちの植民地主義に対する認識の甘さが目立つ作品だと感じた。
それが朝鮮戦争を生み、ベトナム戦争を生んで、今の混乱な社会を生んでいると感じた。しかし、残念ながら、サタジット・レイがこの演出家の影響を受けている事は確かなようだ。
清々しくステキな映画
作り方がうまい、よくできてる!と思った。いろいろな要素が詰まっているけれどバランスが絶妙で、見やすくしかも力強く伝わってくる。軽快で個性的なセンスが新鮮で、映画の古さを感じない。(現地人の言葉が翻訳されていないところも◯。)
ハリオット役の個性的な風貌と、少しクセがある演技もよかった。もし彼女がふつうに美少女でクセもなかったなら、これほど個性を感じる映画にはならなかったと思う。
ハリオットやジョンの場合のように、自分の思うようにいかぬ状態や、予期せぬ惨事や失敗とうまく付き合うのは難しい。
しかし、そういうことがあるのが当たり前なのだと…それぞれに難アリ…それが人生のデフォルトなのだ、そう思えば、少し気が楽になり、また続けようという気になる。そういう気持ちにさせてくれる。
河は同じように流れ、そこでの人びとの暮らしは同じように続けられていく。その風景で始まり、その風景で幕を閉じる。
それは、そういうことだと思う。
「片足の人の国でも探すつもり?」
観終わった後に、とても強い印象を残す作品。画作りも脚本も完成度がとても高い。
数多くいる登場人物。その中で特にジョンとメラニー、自分の居場所を見つけられない二人の対話がとても印象的。その一つひとつの言葉が、どれも胸に刺さる。
また、直接的ではないが戦争や植民地支配に対する反対の意思も感じられる。そうした様々なことを詰め込みながらも話が破綻しないのは、次世代を担う子どもたちに対する一貫した愛情がかんじられるからだろう。
…
この映画を観て思い起こされたのは、学生時代に暗記させられた方丈記 の第一段『ゆく河の流れは絶えずして…』だった。無常観が主題になっている訳では無いが、根底にそれを感じる。
この映画が作られたのは第二次大戦が終わり、イギリスからインドが独立した頃。西洋の思想が行き詰まる中で、東洋の思想に答えを求める流れの先駆けとも言えるのだろうか。
異文化の中で気づきを与えられる
現在のお祭り騒ぎのディワリより、この伝統的なのに興味があり集中して見ていたが、米国帰還兵士ジョン(Thomas E. Breen)の心の葛藤に興味が出てきた。
息を呑むようなインドのガンジス・デルタ文化とそこで醸し出す人間ドラマで、キャプテン ジョンが第2次大戦で負傷して片足を無くしたことにより、自分を見失ってしまったが、いとこの家庭に滞在している間で、人々と関わっている間に自分を取り戻し、立ち直り米国に戻っていくというストーリー。
ガンジスがわのそばに住んでいるイギリスの家族(この映画が何年の設定か明確でないが当時はインドはイギリスの植民地。)
父親はジュートの繊維工場を経営していて、子供達(姉妹と弟)とインド人の召使たちと暮らしている。そこに近所のメラニー(Radha Burnier )の父親がアメリカの従兄弟ジョンを招く。ハリエットたちはアメリカ人、ジョンに興味を持つが片足が不自由だと気づく。
ハリエット(Patricia Walters )と姉のバレリー(Adrienne Corri )とメラニーはジョンが好きになる。
ここで大きな気づきを与えてくれる最高のシーンがある。
自分が片足になったことを受け入れられないでいるジョン。メラニーはジョンに「同意する」ことだという。受け入れると言う方が適切な日本語だろう。
ジョンは「何に」と
メラニーは「全てに」と
「自分は反逆している」と。
メラニーは「反逆も争いだ」と。
それからジョンは
「I am not stranger anymore」と
ジョンは自分は片足のジョンで生きることを受け入れることができた。メラニーの言葉はジョンに気づきを与えてくれた。
この迷いをメラニーも持っていた。メラニーは自分のことが嫌いだとジョンに言った。ジョンは不思議そうな顔をしたが、当時のインドにはメラニーのアメリカ人のお父さんのようにインド人との結婚で二つの文化を持ったメラニーのような子供を持つことは稀だったようだ。メラニー自身も自分のアイデンティティを探している時、自分を失ったジョンにあったわけだ。
例えば、メラニーの父親は「メラニーはどこに属するかわからない」と。そして「生まれなければよかった」と言う。
メラニーは「私は生まれている。いつか自分がどこの属するか見つける」と言う。
自分を受け入れられないで「争い」をする。例えば、ある人は自分が老いていくことを受け入れられなくて、整形を繰り返して戦う。単純な例だがこの人は受け入れると言うことに気づかない。自分の意識にないのである。
これに言語化して気づかせたバレリーとメラニーの存在は大きい。
ハリエットが(Patricia Walters )が大人になって書いた小説をナレーターとして話しているという形にしている。
インドに魅せられたできた映画なれど
ジャン・ルノワール監督が、インドの音楽、生活、人々の暮らしぶり、自然、そして全てを包含し永遠をイメージさせる大河に魅せられたのは、とても良く分かった。ただ、それは欧州人なればこそなのか、アジア人であるせいか自分には十分に共感できなかった。
ただ、主人公の友人であるインド人と米国人の混血の女の子の美しさは、なかなか。ただ感情表現が乏しく、少々物足りないところも。なかなかに良かったのはインドの花嫁が踊る伝統的な踊りのシーン。また、少年が蛇使いを見て夢中になり真似をしようとする展開は、うまく悲劇を予感させてお上手。ルノワールの子息がとったカラー映像ということで、大きく期待もした。まあ悪くはないが、その色彩映像は驚かされるまではいかなかった。
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