ザ・マスターのレビュー・感想・評価
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顔!
観る前に賛否両論ってのを聞いていたのとPTA監督っていうのでかなり身構えて臨んだ138分。
ホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンの顔。
大画面で長回し。それだけでグイグイ引き込まれる。
狂気にも似たホアキンに対して、ホフマンのふくよかな顔と声。
妙にざわざわする音楽と長時間無音シーンの緊張感。
しかしわかりやすい起承転結はなく
怪しげ極まりない集団と行動原理のわかりにくい主人公。
『マスター』の意味もよくわからない。
しかし濃厚で凄いモノを観た!という体験は確実に残る。
しかしここまで行くとついていける人は限られると思う。
わかりやすさを排して描きたいものを自分のスタイルで描いた感じ。
でも、やはり二人の顔で成立した映画だな。
美しい作品
難解!でも、一見の価値はある
「ブギーナイツ」「マグノリア」「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」…。
監督作に外れ無しのポール・トーマス・アンダーソン。
前作「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」は圧倒的な作品だったが、今回もまた一筋縄ではいかない。
第二次大戦から帰還後、アルコール依存で自暴自棄な生活を送るフレディ。そんな時、新興宗教団体“ザ・コーズ”のマスター、ランカスターと出会い、彼に傾倒していく…。
トム・クルーズが熱心な信奉者で知られる実在の新興宗教団体“サイエントロジー”をモデルにした事でも物議を起こした。
ハッキリ言って、非常に難解。自分の頭では、映画が訴えるテーマの半分も理解出来なかっただろう。元々、宗教に傾倒する意味すら分からない。別に宗教の全てを非難する気は無いが。
しかし、宗教云々とかではなくとも、二人の男のドラマに焦点を絞って見る事は出来る。
迷える男と救いの手を差し伸べる男。
「君を好きなのは私だけだ」
宗教の教祖の言葉としては、これほど巧みなものは無いだろう。
フレディはただ宗教にすがりたかったという訳ではあるまい。彼が惹かれたのは、全てを受け入れてくれる存在。
それはランカスターも然り。フレディを言葉巧みに宗教に引きずり込もうとしていた訳ではない。彼は彼なりにフレディを救おうとしていた。
愛憎とも絆とも言える関係で結ばれていく。
迷える心を救えるのは、宗教か、絆か。
これが、演技の極地。
ホアキン・フェニックスの、終始緊張感みなぎる演技は凄まじい。皮肉にも本作へ出演前にプライベートで奇行が目立ち、役柄と素顔が被って見えて仕方なかった。
“動”のフェニックスに対し、“静”のフィリップ・シーモア・ホフマン。その巧みな演技は文句のつけようが無い。
この二人が向かい合う“プロセシング”のシーンは本作最大の見所。
エイミー・アダムスもこういう作品でこそ演技が光る。(フレディの視点で女性が全員全裸のあるシーンで、エイミーのおばちゃん体型はある意味衝撃的!)
ジョニー・グリーンウッドの音楽は印象的。
65ミリフィルムによる重厚ながらくっきりとした映像は美しい。
先にも述べた通り、難解な映画である。好き嫌い物の見事に分かれるだろう。
映画の中身について知ったような事は言えない。それでも、演出、演技、映像、音楽…映画の力は感じられる。
見て損は無い映画だと思う。
死の臭いのする刺激に魅入られて
フィリップ・シーモア・ホフマンとホアキン・フェニックスの競演、ずっしりと見応えがありました。
孤独な男達の魂の話でした。
いつの間にか、フィリップ・シーモア・ホフマン演じる新興宗教のマスター、ランカスター・ドッドに気持ちをもっていかれました。
アルコール依存症のフレディが作る、どう見てもアブナいカクテル。弱い者には死をもたらしてしまうほどに危険なもの。それは、まるでフレディのよう。
ランカスターのカリスマ性と人柄で始まった集まりが、彼と解離しゆっくり変容してゆく中、その死の臭いのする危険な刺激を欲し、魅入られたのでしょうか。じりじりと痛いです。
ホアキン・フェニックスの、全く先の読めない狂気の演技が凄まじく呆気にとられてしまい、フレディの内面までは思いを致せなかったというのが正直なところなのかもしれない。
鑑賞する度に違う作品に感じるような気もします、時間をおいてまたぜひ観たいと思います。
面白い!が、真面目に付き合ってると身が持たない。
流石!流石のPTA映画!ですなぁ。うんうん。今回もひたすら面白かったですわ。
相変わらずというか、揺るぎがないというかね。いつも通りのシチュエーション的ディスカッションなノリで以って映画をひたすら切り開いて進めて行くPTAノリ満載の最新作でした。
自分はあれなんですよ。PTA映画で学んだことがあってね。「マグノリア」観てから以降、教訓に刻んでるのですけども。
彼の映画は兎に角『額面通り眉間に皺寄せて真面目に向き合わない』ことってね。そう決めてるんですよ。ここはもう人に寄りましょうけども。
んまあ疲れるんですよね、真面目に向き合ってると。精神が疲弊しちゃってね。だからもう、自分の場合は真剣路線なそこら辺を放棄して鑑賞するんです。
余りにテンション高くて役者の演技が振り切れちゃってるからギャグ的感覚も滲み出てきてて、そっち方面で観るとめちゃくちゃ面白いんですよ。
もう行き過ぎのテンション振り切れシーンのオンパレードだしホアキン・フェニックスもフィリップ・シーモア・ホフマンの演技もマックス限界値で、それを肩の力抜いて観るとくっそ楽しめるっていう。
おまけにあそこまでのハイボルテージを魅せ付けといて、結局は最後まで何も起こらずに終わるというね。
「オチは?それはオチなの?」ていう。本当に何も無いまま終わるという。
あのテンションで以って何も起こらない。最高ですよ。
て、映画です。ハイ。
飼いならそうとした男と飼いならされそうになった男
過去の悲しみを克服する
過去の苦しみを取り去る
そしてその苦しみから解き放たれた体験は
人々を感服させ、男を尊敬の念を込め『マスター』と呼ぶ。
フレディ・クエルの奔放かつ粗暴な心をなんとか人間社会に適合させようと
『マスター』ランカスター・ドッドは様々な方法を用いて
性格を矯正しようとします。
矯正シーンは見ていて辛い。
洗脳に近い方法で、嫌なことを言われても反応しないという教育や
想像力を鍛え自分の目の前にあることだけにこだわらない教育がなされます。
もっともそんな教育に耐え、逃げ出さなかったのも
フレディが『マスター』を信頼していた為でしょうが・・・
見ていてちょっと引くくらいつらそう。
人生の一時期、洗脳的な教育を施されるがそれも過ぎ去って、新しい今を生きる男の話。
残ったのは少し穏やかになった性格と、『マスター』から受けた教育の名残。
『マスター』に残ったのは自分の教育が上手くいかなかったことへの敗北感?か、どうかは知りませんが。
洗脳的教育で性格を矯正したからこそ、
昔の女が自分を待たずに結婚したと聞いても穏やかに居られた。
自分の歪んだ性格を強く持っていても幸せになれない、なら
矯正された性格で穏やかに生きることが幸せ、なのかもしれません。
といっても、フレディは自ら進んで『性格を直してくれ』と選んだ訳ではありません。
そこがこの映画の問題点であります。
『人は他人から押し付けられた幸せでも幸せになれるのか?』
広がる闇
よくわかりませんでした‥
うーーーーーん
失望・・・。全てが中途半端。
PTAの作品ということで、かなり、期待していたのですが、大外れ、でした。ホアキン・フェニックスのアル中の描写が中途半端なら、フィリップ・シーモア・ホフマンの主張する教義も曖昧、エンディングも良く判りませんでした。読売新聞などの映画評ではホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンは実際の父と子のようだ、などと、云っていましたが、笑止!私が思うに、PTAはもっと、時間が欲しかったのに、大人の事情かなにかで、見切り発車して、映画製作に取り掛かったのではないのでしょうか。とにかく、脚本が無残なまでに酷いです。科白も信じられないくらい薄っぺらです。もっと、もっと、錬ってほしかったです。
これから、観に行こうと考えている方へ。
過大な期待は禁物です。ま、そこそこの映画、を観に行く、その程度の気持ちでお出かけ下さい。
父と子の物語。そして陰の主役、エイミー・アダムス。
精神論的なディスカッションが苦手な私としては、溶け込めない部分があり睡魔に襲われるが、フレディを戦場から戻ってきた息子に、そして“マスター”を故郷の父に置き換えてみると、二人の関係や互いへの思いがやや理解しやすくなる。
命の遣り取りをする前線を経験し、やり場のない心の逃げ場がアルコールで、その成分は精神の病みに合わせるように危険度をエスカレートさせていく。帰還してもフレディを癒してくれるものは結局アルコールだけ。
フレディにとって、自分を理解してくれる人間かどうか、その判断のバロメータは自身が作ったスペシャルドリンク(何を混合したかわからない危険なアルコール)を喜んでもらえるかどうかだったのではあるまいか。
初めてスペシャルドリンクを心から旨いと言ってくれたのが”マスター”だ。
フレディはやっと故郷に帰って来ることができたと感じたに違いない。
そこから続く二人の蜜月は、無事再会を果たした父子の喜びのようであり、息子が父の事業を手伝いながら元の社会に適合していくかのようだ。
そして二人の間に生じ始める亀裂は、息子の遅咲きの反抗期のようであり、厳格な父と母への反発と独り立ちの兆しでもある。
この作品は、父の生き方に共感し手本として生きた息子が、自分本来の生き方を見つけて旅立つ物語だ。
それにしても、親父を陰で支え、叱咤して操るのは、やっぱり妻なんだな。陰の主役・・・エイミー・アダムス。
そして音楽と色彩が綺麗だ。
もし[印象]に「虚しい」という項目があったならチェックを入れる。
映像美に酔いしれた。スクリーンで観るべき作品
快作!
ホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマン、相対する二人の演技は凄絶。
映画自体のカメラはフィルム65mmで撮られている。
P.T.アンダーソン監督はもともと65mmにすることに決めていたわけではないようだが、これが凄く良いと思う。そんな目利きじゃないから詳しくはわからないけど
ホアキン演じるフレディ・クエルは第二次世界大戦を水兵として終える。終戦後、彼は重度のアルコール依存症と精神異常を抱えた状態に陥っていた。
地元に戻った彼は写真家として職を得るが、顧客とうまくいかずにやめてしまう。放浪した末に乗り合わせた船でMaster,フィリップ・シーモア・ホフマンのランカスター・トッドに出会うのだ。
ここからのストーリーはぜひ自分の目で観てほしい。
僕が気に入ったシーンをいくつか挙げるとすれば
①写真家フレディがつきあったモデルの女性の胸をさらけ出すシーン
②広大な農地をフレディが走るシーン
③フレディとランカスターのプロセシングのシーン
④フレディの存在についての一家の食卓での会話シーン
①は女性が良かったなって。大人な強気なお高くとまったっていうのかな、そういった顔立ちだったのに脱ぐと愛らしい胸だからぴったりのカットになったなと思った。ドレスを着てくるりと回る、脚フェチの傾向がある僕にとっては美味しかった笑
②はフレディの精神的な孤独を誇張するかのように、追っ手を映すことなく、一人で広野を走っているようなポジショニングが気に入った。
③は広角で撮られてたところがまず良かった。容易に引き込まれる場の作り方だなって感心した。ホアキンがどんな演技をしてもいいようにという予防線のために広く撮ってたみたいだけど、これが良い。それにこのホアキンは迫真の演技!!!!痺れた〜
④フレディはなぜこの教団にいるのか、とエミリー・アダムスが追い出そうとするシーンは、覇権の怖さを伝えた。
特徴としては時々奇態な所もあるのにそれが浮かないこと。例えば、一番奇態なシーンは集まった人々の女性全員が全裸であるシーン。(フレディの視点だとわかるが)
フレディはトイレを破壊するほどの凶暴性をも持っていて、マスターに反発するものは暴力によって屈服させるという手段をとっていく。彼のマスターを信じる狂気じみた信仰はゲイであるかと思わせるかほどのもの。マスターはマスターでフレディに特別な感情を持っている。これは不完全な自分の補完的要素をフレディが持っていたからに違いない。二人は相対する人間であったからこそお互いを必要とし、それは静閑なほどに、僕の胸には、人間の関係すべての意味を投げかけてきた。扱ったモティーフの難しさに関わらず、快作。
絶対観るべきとおすすめできます!
意味不明を求める
主人公のホアニン・フェニックスは異常だ。
なんていえばいいのか。眉がやたら濃くて、目はやたら深い。
鼻と口は変な方向に曲がっている。
歩くしぐさは完全に歪んでいる。
その暴力性は刑務所のトイレを蹴り壊した。
マスター(教祖役)のフィリップ・シーモア・ホフマンはまだマシ。
確かに歪んではいるが、まだロジック部分も捨てていない。
それでなくちゃ、集団を束ねることはできないだろう。
論理性と頂上性が危ういバランスをとっているんだが、
ホアニンが出てくるともう一方の破壊力が頭をもたげてくる。
そんなふたりを相手にするのがマスターの妻、エイミー・アダムスだ。
彼女のこれまでの女優業はすごくまともな役が多かった。
クリント・イーストウッドの娘役で出た「人生の特等席」なんか
その典型だし、「ダウト」の清純派シスターなんてのも
普通のひとの感覚だったし、そこに安心感をもたらしていた。
そういえば、「ダウト」では、
厳格なシスター校長役のメリル・ストリーブと、この映画に出てくる
進歩的なホフマン神父の確執に少し似ているかもしれない。
その間を行ったりきたり、迷いながらも正常を保つエイミーがよかった。
でも、この「ザ・マスター」では違っていた。
子どもをもつ母親として、当然、マスターの側につく。
歴然として、果然としてホアニンを叩き潰そうとする。
叩き潰すには策はいらないのだ。
夫は彼に興味はあるのだが、無視するように仕向ければいいのだ。
そんな狡猾な女、母親を演じていたエイミーもよかった。
この映画と同じように、僕のレビューも行き当たりばったりで、
脈絡なく進んでいくのだった。それでいいのだろう。
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