シン・エヴァンゲリオン劇場版のレビュー・感想・評価
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ようやく着地したという安心感。それ以上はないかな
TV版の頃から、結局エヴァって辻褄合わせとか考えてないんだろうな、と冷めた目で見てしまっていたわたくしは、今作も「面白さ」には特に期待せず、最後の最後に一体どう着地するのだろう、という興味関心だけで鑑賞しました。
で、結果としては、なかなか綺麗に着地したじゃない!というスッキリ感でいっぱいでした。
もうこれでエヴァについてモヤモヤしなくていいんだ、という安心感というか、解放感というか。
ぶっちゃけ伏線回収は全然出来てないし、戦闘シーンも今となっては特段新しさも感じないし(プロメア辺りの方が遥かに凄い)、面白さで言えば2点なんですが、まぁあんだけこんがらがったモノをとりあえず綺麗に着地させたことに「お疲れ様」のプラス1点で。
最初から最後まで難解。そしてやっぱり妄想オチ?
2021年映画館鑑賞30作品目
3月29日(月)イオンシネマ石巻
テレビアニメも劇場版も全て観た
前作の映画から久々のエヴァンゲリオン
鬼滅の刃と違いコナンくん同様これまでのあらすじを紹介する気配り
けれどもコナンくんと違い少々ちんぷんかんぷん
テレビアニメの終盤からずっとこの調子だった
庵野秀明監督自身もわけわからない状態なのだろう
周りは成長したけどシンジだけは成長しない
シャアより赤い世界
とはいえシャアは赤というよりピンクだけど
改めて見るとシンジってアムロ・レイより厄介
結局のところ母の死から引き篭もる少年が引きこもりを卒業し大人になる物語なのか
コミック版のラストとたいして変わらん
アスカのヌードあり
っていうか露出狂
こんなキャラだった?
綾波レイのそっくりさんが溶けて消えちゃうのは悲しい
写実化された巨大な綾波レイは圧巻
CGが良い
終盤はともかく全体的にテンポが悪い
難解な言葉が飛び交いこれは子供向けではない
解釈をめぐってオタクがネットで激しい議論するんだろう
自分と解釈が違うとブチギレる大人気ない人々
考えても無駄無駄
理屈じゃない
感じろ
これは芸術映画
なぜか宇部新川駅
なぜか山口県宇部市
これで本当に終わりだよね?
エヴァの終わりとしては申し分なし!
普通がイチバン!
物語の主要部分とは関係ない第3の村のエピソードが長いのだが、これは平凡な日常への憧れが強くあることを打ち出しているのだろう。なにしろ高度成長前の田植えまで戻ってしまうのである。
世界が破滅した後の状態から見慣れた日常に戻るというアクロバットをやり遂げているが(テレビ版最終話での失敗を挽回しようとしている)、この映画は非日常から日常へという「形式」が重要であって、ロンギヌスの槍とか神とかいった「内容」は瑣末なものである。それがキリスト教の用語でなくても仏教的な用語で語られていても違いはない。神秘的な場面の連続なので、そのイメージをどう解釈させるかは言葉の問題である。言葉で、これがこうなると言えばそう解釈するしかないのである。「インターステラー」の超科学的なご都合主義を思い出させる。
ゲンドウがシンジと同型に造形されていたのは、ちょっとベタな展開で驚いた。セカイ系の面目躍如であるが、25年かけてこれかよ、と。
よかった点は、わかりやすく作られていたこと。内容と形式の分離が進み、内容はどうでもよく、形式を語っているのだということがよくわかった。内容(キリスト教的な世界観の引用)はセリフによる説明で済まされ、これがお好きな人はどうぞご自由に解釈してくださいというシニカルさがあった。
ロボットものの見せ場はロボットプロレスだが、エヴァ初号機どうしの戦いは、戦い自体にもはや作り手の関心はないということを示すかのように茶化されていた。作品を賦活するためか『Q』で戦艦が出てきた時に、エヴァは一気に古びてしまった。作品のロボットもののテイストが薄くなってしまった。
何にせよ、これが最後なので、最後から理解できるということがわかりやすさになっている。最後なので今まで伏線とは思われなかった部分が伏線として立ち上がり、設定の裏の裏まで明らかにされた(ゲンドウ問題、ユイ問題、複数の大災害の意味とか)。もちろん後付けなんだろうけど。
また、最後だけにテレビ版最終話他すでに語られたエピソードへの仄めかし的な言及もあり、通底したものがあるかのようにまとめている。だがそれらに多少なりとも辻褄合わせやコジツケ感があることで、本作も多々あるエヴァ解釈の一つになってしまうのである。
それにしても、テレビ版の失敗がここまで作品を作り続けさせる意欲を持続させることになるとは! うまく締めくくれないとトラウマになるという奇妙な作例として後世に残るだろう。
考察は、出来ない!(笑)
アニメは、好きなので(ガンダム世代)で良く見ます。
社会現象時代は実家(田舎)でTV放送すらさせず、(雑誌でよく取り上げられてて、「ふーん」くらい。)上京してからパチンコの映像で興味を持ち、TV版をDVDで鑑賞。で、新劇場版4作を観るに至った訳ですが
まあ、欠片も理解出来ん!
という前提の話を(苦笑)
まあ、何となくはね?思春期の複雑な感情からのすれ違いや葛藤。また、大人であっても上手く行かない人間模様。複雑に絡み合ったストーリーにロボット?アクション、人類滅亡(補完?)まで振り切った壮大な話な訳で、謎が謎を読んで色々と考えたくなるし、キャラも魅力的。人気があるのも分かります。嫌いではないです。が!
先ず、作品として掴みのアクションから前作「Q」の続きからスタート、被害から逃れた第三村にたどり着き、ヴンダーから迎えを待つ3人(一人はウジウジ)。
避難民との生活に人間らしさが出てきた綾波と思ってたら爆死!シンジ君何やら決心。このあたりまでは良かったんですよ。
ヴンダーに戻ったらいきなり決戦で、その後がひたすら戦闘が続いて、裏宇宙?に入ってカオスな状態に突入。親子の会話から
なんか皆が救われて。少し成長したシンジ君とマリでラスト。
映像とアクションは凄いです。
しかし、やはりと言うか、エヴァンゲリオン特有の断片的な映像(心理描写)の切り替えの中での会話劇が馴染めないかなと。
ゆっくりならまだ良いのですが今回は展開が速い気がして。
また、シンジ君もウジウジから立ち直ってからが、全てを悟ったかと言うような振る舞いで拳銃向けられてもピクリともしない。(笑)ゲンドウとの親子の会話?と言うかゲンドウが勝手に喋って勝手に悟ったように感じしました。
新劇場版は、序、破、Q迄はしっかりアニメしてて良かったんですよ。で、今回の「シン」でやっぱり現実とのクロスオーバーみたいな実写シーン入れてきて、で、ガクンと。
ファンは、それでも良いのでしょうが。
ひと言「アニメ観に来てんだから実写入れんな!」
作品ではなく作者が一人歩きした映画
私は大きな思い違いを2つもしていた。
●思い違いその1。
エヴァンゲリオンはシンジやレイ、アスカ、ミサトの物語だと思っていた。
だが違った。
「私、庵野秀明をご覧ください」という映画だった。
解釈、ではない。オーラスのシーンははっきりそう宣言しているに等しい。
庵野秀明の出身地・山口県宇部市の宇部新川駅が舞台となり、成長し声変わりまでした主人公が恋人と駆け出して映画が終わるのだ。
「シンジはわたしです。本作品はわたしの世界観がすべてです」ということだ。
創作の世界では「作品が一人歩きを始める」ことがよくあるというが、この映画は真逆だ。
作品ではなく「作者」が一人歩きしてしまった。
エヴァとは何だ。エヴァとは私自身ではないか。そう開き直れば何をしても許される。
綾波が輪島の千枚田で田植えをしようが、2台のエヴァが中学校の教室内で格闘しようが、碇ゲンドウが精神世界の電車にワープして来ようが、死んだカヲル君がまたぞろ語り始めようが、何でもありだ。
なぜならすべてが庵野秀明の世界観だからである。
庵野秀明の“わたしを見て”を是とするファンには、本作は素晴らしい映画となる。
が、私のように“あんたの頭の中は興味ない。シンジやレイ、アスカが何処に行き着くのかが見たいんだ”という者にとって、この結末は“何じゃそりゃ”なのだ。
●私の思い違いその2。
新劇場版 序・破・Q・:||は、テレビアニメ版・旧劇場版で物語を終わらせることができなかったことに対する贖罪の映画だと思っていた。
「前作は失敗しました。でも今度はちゃんとやり直します」ということだ。
だが違った。
これは贖罪の映画ではなく、25年間のエヴァ全史を肯定し、まとめて終結・卒業するための映画だ。キャッチコピーにある「さらば、すべてのエヴァンゲリオン」とはそういう意味だ。
テレビ版の「おめでとうパチパチパチ」も旧劇場版の「気持ち悪い」もすべてあるべくしてあったシーンであり、渚カヲルとはそのパラレルワールドを渡り歩いて世界を繋ぐ存在で、繰り返される円環の物語の目撃者だというのだ。
…なんといさぎ悪いことか。
(「いさぎ良い」の反対語は「未練がましい」だが、ちょっとニュアンスが違うのでこの変な言葉を使うw)
テレビアニメ版は放送スケジュールに追われ、終盤は作品の体をなしていなかったし、旧劇場版はストーリー的に破綻し、なんとも胸糞悪い「Bad End」になっている。
学生劇団であるまいし、広げた風呂敷を回収できないのはプロの仕事ではない。
私は庵野秀明の天才的感性に大きな敬意を払いつつも、エヴァの過去作品は明確に失敗品であったと思っている。
だから、過去作は明確に否定して決別し、新にやり直した作品を観たかった。
だが、製作者の思いは過去作も全肯定ということのようだ。
これは私にとっては大きな思い違いと言わざるを得ない。
●以下は上の2つの思い違いを踏まえた上での感想である。
・この映画が良かった点
完結したこと自体は本当に良かった。もやもやを引っ張るのが一番よくない。
製作者サイドから「これで終わり」というメッセージを強く感じ取った。
「鬼滅の刃」の原作同様、作品をちゃんと終わらせることは極めて重要なことである。
ラストの駅のシーンでは、まさかまさか、すべてはシンジ(=庵野秀明)の夢だったというオチかと一瞬怖れおののいたが、杞憂だったようだ。
・この映画が良くなかった点
あくまで個人的な思い入れだが、エヴァンゲリオンの肝はシンジとレイである。
綾波がどこに行き着き、シンジがどう変化するのか。それが腑に落ちる結末ならば私にとって「Good End」である。だが本作の綾波はあまりにもはかない。「黒波」が白くなってチュルンと消えるなんてあんまりだ。
また、アスカがクローンであることが明かされるが、このような悲しい存在は、綾波一人で十分ではなかったか。
最後、シンジが救世主と言える存在に成長し、ポッと出のマリがスーパーガールを演じるのに対し、25年にわたってメインキャストを務めてきた二人のヒロインに、このつれない仕打ちはどうなのだ。
結果的にマリがいたから本作は幕を引くことができた。レイ、アスカではなくマリに頼らざるを得なかったのは残念な顛末だ。
そして本作のラスボス・碇ゲンドウがあまりにちょろい。彼が目論む「人類補完計画」の真の目的は妻ユイと再会するという極めて個人的な願望だった。この歪んだ動機のアイディアは素晴らしい。それを支える冬月コウゾウのいかれ具合もいい味だ。
しかしその戦いざま、死にざまのなんと情けないことか。人類滅亡を招いてまでやるつもりのくせに、息子が怖いだの初めて孤独を味わっただの、ヘタレにもほどがある。
余談ながら一緒に映画を観た妻(エヴァの知識は乏しい)は、2時間30分の上映時間の半分はスヤスヤモードだったが、観終わって開口一番「ゲンドウがダメすぎて話にならん」と切って捨てた。おお、意外とちゃんと観てるやないけ、と見直した。
・この映画を理解できたか
裏側に精緻な世界観が構築されているようで感心させられる。
複雑で自力では理解できないので、YOUTUBERによる解説動画などを観て参考にした。
結論としては理解できてもできなくても、作品に対する評価に影響はしないと思った。
アダムスがどうでリリスがどうで、カシウスの槍だ、ニアサードだフォースだ…
ふ~ん、そういうことなんだぁ…。
………で?
理屈がわかったところで話が面白くなり、感情が揺さぶられるわけではない。
・庵野秀明ワールドについて
基本設定は近未来SFアニメである。なのに若き日の庵野秀明の目に焼き付いた原風景をそのまま映像化する手法はいかがなものか。思い切り昭和チックな光景を多用し、精神世界の表現もかなりレトロである。これではエヴァンゲリオンでなく庵野秀明の頭の中を覗いているに過ぎない。“一体これは何を見せられているのだ?”という気分に何度かさせられた。
仮に同じテーマは描くにしても、作品設定上のオブラートで包むのが創作の“作法”ではないのか。ダイレクトに自己投影したいのなら、はじめからSFアニメの衣をかぶるなよと言いたい。
庵野秀明は天才だ。尊敬する。だが、エヴァになると正気を失ってしまうように見える。
よほどエヴァは彼にとって特別なものなのだろう。
だから次作「シン・ウルトラマン」はいい意味で力が抜け、「シン・ゴジラ」に続く傑作になるのではないかと勝手に期待している。
リツコさんのスーツにくぎ付け
映画3作を一気見してから映画館に行きました。映画では細部がわからず、遠い記憶を遡ってアニメでこんなこと言っていた気がする…と思うことが多々あった気がします。
なんかもう単語がわからず
途中意味がわからないところもありましたが
迫力が凄かったのでノリで見切りました。
アニメも見てからもう一度観たいです。
そしてシンジくんは変わらずうじうじでしたが
アスカが私が思っていることを全部言ってくれたのでスッキリしました。
何て言うか、女性が全体的に格好良かったです。みんな胆が座っていて。
綾波は途中めちゃめちゃ可愛いです。
後は難しいことを全部取っ払うと
奥さんを亡くして悲しみから立ち直れない父親とそんな父親と仲良くなりたい息子の壮大な親子喧嘩だと思いました。
ゲンドウの事を考えてエンディングのBeautifulWordを聴くと少し泣けました。
もっと書きたいことも沢山ありますし、
お金を払って映画館に見に行って本当に良かったと思いますが、私の理解力が足りず不明点が割とあったので取りあえず星3つで。
きっと二度目、三度目と見るたびに評価が上がっていくと思います。
気になっている人は見て後悔はないと思います。
にわかファンです。
シンジ=ゲンドウ=監督の救済の物語?
エヴァという作品はそうとうに特殊だと思う。映画単体で評価することができない。★3つというのは、映画単体でいえばこのくらいかな、というところでつけた。
この映画のストーリーを読み解くには、アニメ版、旧劇場版を含め、監督とファンの関係など、メタ的な解釈が必要に思う。
ひとつ言えるのは、監督は常にファンのために映画を作ってきたんではないか、ということだ。監督とファンとの関係は、まるでゲンドウとシンジの関係のようだ。お互いに愛しい存在であるが、嫌ったり憎んでもいる。
ゲンドウはシンジに「大人になれ」とくり返す。旧劇場版から一貫して、監督はファンに「お前らエヴァから卒業しろ。これはアニメで虚構だ。現実を生きろ」と訴え続けている。
新劇場版の「序」「破」までは素直なストーリーで、「もしかして監督は今度こそエヴァを作品としてちゃんと完成させようとしてるのかな?」と思った。
しかし「Q」で、結局「お前らエヴァから卒業しろ」に戻ったのか…、と思った。
そして今回の「シンエヴァ」が目指したものは、「エヴァの無い世界」と「すべてのエヴァキャラの救済」だろう。
これは、従来までの「エヴァから卒業しろ」という突き放しとちょっとニュアンスが違うように思う。
エヴァがなぜこんなにも長期間ファンがつくことになったのか…。
それは、旧劇ではこの物語が終わっていなかったからなのではないか。
逆の言い方をすると、監督は旧劇でエヴァをちゃんと終わらせることができなかった。
それは、監督がシンジくんの問題を最後まで解決できなかったからだ。
監督は、ファンがエヴァから卒業できないのは、ファンが大人になれないからだ、と考えてきたのではないか。
しかし、実はそうではなく、監督自身の問題だ、と気づいた。
シンジくんの物語は、父親との確執が解決されなければ絶対に終われるはずがないのに、旧劇ではその決着がついていなかった。
「シンエヴァ」ではついに、ゲンドウ自身が自分が子供であることを認めた。
ゲンドウはシンジを認め、シンジはゲンドウを認め、監督=シンジ=ゲンドウは救われた。
「お前らエヴァから卒業しろ」ではなく、「私はエヴァから卒業する」が今回の映画だったんではないか。
映画の最後、大人になったシンジくんは実写の宇部新川駅の階段をかけあがるところで終わる。これは、シンジ=監督が大人になり、エヴァから卒業した、ということをあらわしているのだろう。
終盤のマイナス宇宙にいくあたりの超展開は、なぜか仏典を思わせるなあ、と思った。
たとえば法華経では、はじめ現実世界からはじまって、途中から虚空に舞台をうつすという超展開がおこるのだけど、それを思わせる。
最後に、順番にエヴァを消滅させていくところとか、キャラを救済していくところは、仏典の最後に仏が登場人物たちに成仏の記別を順番に与えるところを思わせる。
成仏(解脱)というのは、輪廻から解放されて、もう二度と生まれてこない、ということなので、エヴァやキャラが作品という輪廻から解放された、と考えるとしっくりくる。
お疲れ様でした。
アニメってわかってるからせめてエンタメとして成立させてくれ。
庵野さんの言いたい事はわかるよ、うん。でも現実ではファンは20年必死に日々を生きていたわけで…メッセージじゃなくて説教かよ。あのオチも物語の否定みたいで拡散しきった世界観をまとめたというよりまとめられないから無かった事にしてぶん投げて逃げただけだ。逃げちゃダメ(笑)
上映時間も長かったけどシンジの最初の引きこもり、ゲンドウの説明はいらないだろ、あれ。意味ありげなキーワードを言わせて考察させるならキャラの心情こそ考察させるべきなんで全部説明させるな、テンプレのラスボスかよ。そもそも親は子供に本音言わねーから、カッコつけて意地張って親をやってんだよ!まぁ死ぬ間際だからアリなのか?
でもさ、エヴァは凄かったんだよ〜昔は(笑)リアルタイム世代じゃなきゃわかんないだろうけど。なんだかんだ言っても完結しただけで感謝です、無事子供が成長してくれた親の気分だよ、ありがとう。ほっとした。
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