「ありがとう∞さようなら」シン・エヴァンゲリオン劇場版 古元素さんの映画レビュー(感想・評価)
ありがとう∞さようなら
私はこの作品を、新劇場版のみならず、告知の「さらば、全てのエヴァンゲリオン」の通り今までのエヴァンゲリオン作品全てを終わらせる作品だと見て取れた。ゆえに序破Qで用いられた「ヱヴァンゲリヲン」ではなく「エヴァンゲリオン」なのだろうと。
ここからは登場人物ごとに順を追って述べていきたい。なお筆者はエヴァの世界観(〇〇結界やら虚数空間やら)に関してはかなり無頓着であるので、キャラクターの心理描写についてのみ、備忘録兼ねて焦点を当てたい。
まずマヤ。テレビ版や旧劇場版(以降旧劇と称する)では純真無垢で博士であるリツコを崇拝しつつも、どこか自分を曲げない頑固な部分やいざとなったときでも人を殺すことを恐れる、エヴァの世界観としては弱い部分を持つ助手として描かれている。しかしQ以降描かれる14年後の世界では一変。「弱音を吐くな!」「これだから若い男は」と常々漏らす強気な女性へと進化しているのだ。ユーロネルフの功績を称え惜しみつつ、弱音を吐く男性部下を叱咤しつつ、ひたすらキーボードを叩き続けるマヤ。無事に作戦が終了するとリツコから「タッチの差ね」とのお褒めの言葉を受け笑顔を見せる。テレビ版「使徒、侵入」を彷彿とさせるこの場面は映画開始10分そこらであるが、既に涙を零してしまった。
続いてアヤナミレイ(仮称)。レイはQでアスカに「あんたはどうしたいの!」と喝を入れられ若干目が覚める。それが今作では顕著。第三村での交流を通して彼女は言葉や世界を知る。ヒカリの「さようならはまた会うためのおまじない」「これ(握手)は仲良くなるためのおまじない」をはじめ、動物、子供、農作業を通し様々な自然を知る。個人的にはレイが田園の中で足を滑らせ転倒し、空を望む場面が印象的。これまでネルフの中で密やかに暮らしていたレイは、空が青いことさえも知らなかったであろう。だからこそ、彼女の紅い瞳が青い空を望む。絵にも私の心にも鮮やかであった。
彼女は何も知らないからこそ強い、と「:序」でも述べたがそれは今作にも通ずる。毎日シンジのいる湖へ向かい食糧を渡し話しかける。「なんでそんなに皆僕に優しいんだよ」と怒鳴るシンジに対しても「碇くんが好きだから」と実直に伝え、「仲良くなるためのおまじない」と手を差し出す。またあれだけ想っていたアヤナミ(=綾波)に対して怒鳴る辺りにも、シンジがレイに如何に追い詰められていて、でもレイによって和らいでいく、彼の想いの強さが垣間見えた。個人的には、素直になれずシンジにばれないよう見守り、シンジが戻った後も「初期ロットのおかげ?」と聞き同意されるというどこまでも「セカンド」なアスカが不憫でならないが。
そして個人的に思い入れが強いアスカ。不眠症気味であること、パペットに「あいつらとは違う」「一人で頑張るしかない」と声かけるなどテレビ版の彼女とは異なる点が複数見つかったが、今回その謎が解けた。彼女もアヤナミシリーズ同様、シキナミシリーズとして複製されていたのだ。シンジが食糧を摂らない場面でアスカが上に乗った状態で無理矢理食べさせる場面があるが、何とも切ない。旧劇でシンジがアスカの首を絞めた場面、それから貞エヴァ(漫画)で精神汚染されたアスカがシンジの首を絞める場面と体勢が全く同じだからだ。シンジはまだリリンもどきで、アスカはもう使徒融合体かつ複製コピー。第三村の状態で、ヒトとして食糧を食べられること、それに感謝すべきだと訴えるアスカが見ていて胸が苦しかった。
二次創作でよく言われる「LAS(Love Asuka Shinji)」であるが、今作はその派閥が大荒れする事態が起こった。ケンスケとの関係、そしてシンジとの関係である。アスカはケンスケの言うことには割と従う、否、アスカなりに信頼しているような姿勢を見せる。最後シンジが皆を救いたいという思いから始まる各々の場面で明かされる幼少期のアスカとその頭を撫でるアスカのパペットに扮したケンスケ。アスカが求めているのは彼女自身がシンジに言った「あいつに必要なのは恋人じゃない、母親よ」の通り、父性だったように思えた。実際彼女のオリジナルであろう惣流・アスカ・ラングレーは彼女の上司であり彼女と近しい存在にある年上の男性に夢中である。その部分がケンスケへ投影されたように感じた。互いが母性若しくは父性を求めていて、互いを破滅しあう関係になりうるアスカとシンジは恋人にはなれないのだろうと思えた。ゆえに最後の旧劇ラストシーンから続く場面で、シンジはエヴァの呪縛が解けてプライドだったインターフェースも外し28歳の身体を得たアスカに自らの好意を伝えたのち「ケンスケによろしく」と別れを告げたのかもしれない。シンジもわかっていたのだ。
彼女はテレビ版からいくら努力しても報われない。シンジへの好意も「ファースト」のレイには及ばず「セカンド」であるし、旧劇では量産型に串刺しにされてしまう。今後の彼女の人生が幸せなものになるよう、またその幸せを恐れないよう、私は祈ってやまない。宇部新川駅で一人だったことは何を示すのか。あれで彼女が幸せであればいいのだが。
Qで賛否両論あったミサト。今作での彼女は、それを「贖罪」する、彼女がテレビ版で述べた金言「奇跡を待つより捨て身の努力」をヴィレの艦長として動く。さらに彼女は加持との間にできた子供であるリョウジを守り、かつて自らと重ねていたシンジを救う母として動く。そして人生で重要なパートナーとなった加持リョウジを想う一人の女性として動く。まるでMAGIシステムのようだ。個人的にはふたつ。Qで涙も枯れ果て強く見えたミサトは、どこまでいっても「ミサトさん」であること。冬月も彼女の作戦を知っては「相変わらず無茶をしよる」と苦笑い。しかしふたつ、異なることがある。ひとつはシンジとのやりとり。テレビ版や貞エヴァではシンジの前で決して加持を想う発言をしなかった。しかし今回「加持の受け売りだけど」と表情を綻ばせる場面がある。他人に、かつ守るべきものに対しても自らの核となるものを見せられる強い女性になっていることが垣間見えた。ふたつめは最期の場面。テレビ版や貞エヴァでは「加持くん、私、これで良かったわよね」と言って息を引き取る。どこまでも女性である。しかし今回は息子であるリョウジを想っている。彼女が女性である自分よりも、母親である自分に重きを置いて生きていることが伝わる場面であろう。(個人的には息子に加持と同じ名前を付けた辺りやはり女だなとも思ったが)
女と言えば出てくる人物がリツコであろう。彼女は全作品でゲンドウの愛人としてネルフで働いている。しかしQからはゲンドウとは袂を分かち、ミサトと共にヴィレを仕切っている。元来、リツコの頭脳であれば一人でも十分に組織を作り上げられるはずである。しかしそこでゲンドウやミサト、MAGIシステムを作った自らの母ナオコを頼る辺りに彼女の弱さが垣間見え、筆者はその部分に強かさを覚えていた。しかし今回は違う。ゲンドウを銃で撃つのだ。完全にリツコが強くなった証拠であると痛感した。
そしてシンジとゲンドウ。シンジは序盤、QでカヲルがDSSチョーカーによって爆死したことを受け失語症となる。しかし皆々の優しさに触れ、自分が他人から愛されていることを痛感する。旧劇であれほど他人を憎み、それでもと愛憎入り混じり「I love you」ではなく「I need you」として他人の存在を欲するシンジとは違っていた。ミサトから「父親に息子ができることは二つ。肩を叩くことと殺すことよ」と言われ初号機に乗る。そこで彼が選んだのはどちらでもない「対話すること」だ。父が行っていることは難しい、しかしその核になることをシンジは尋ねた。ゲンドウは答える「ユイにもう一度会うこと」そして彼の回想、つまり電車の場面になる。イヤホンで耳を塞げば世間を遮られること、他人が怖かったこと、知識を得ることと調律されたピアノだけは信じられること、そして大学でユイに出会い全てが変わったことを話す。話していくうちに、シンジとの距離の取り方、全てを察したのか、泣き疲れて呆然としている幼いシンジを抱きしめる。その場面で、幼少期から他人と接する際の自分と、本を読んでいる自分の乖離を感じていた自分は胸が苦しくなった。自分が何をどうしたいのか、全てを把握しての行動として、ゲンドウの、否、碇親子や碇夫妻のあるべき姿ではないかと思えた。シンジがマリと駆けて行くラストに関しては、大人で包容力のある自称「いい女」のマリとシンジは最適解ではなかろうか。
今作全体を通して庵野監督は、エヴァにはまり、のめり込んだ全ての人へ別れを、そして現実へと戻るように促したのではないか。その表現を、アニメという範疇を超えて実写を用いる。その技術に圧倒された。良い意味で「エヴァらしくない」終わり方を遂げたエヴァンゲリオン、私は大いに心動かされ、未来の自分に繋げられたらと思えたが、旧劇のそれを良しとする方もおられるだろう。それもまた素敵に思える。25年に渡り、多くの人間に多様な考え方を展開させ、それを肯定してきたエヴァンゲリオン、本当にありがとう。
追記
アスカとマリの戦闘シーンで、プリキュアを彷彿とさせるものがあったのは私だけであろうか。