「シンジの願いは庵野の悲鳴」シン・エヴァンゲリオン劇場版 サブレさんの映画レビュー(感想・評価)
シンジの願いは庵野の悲鳴
この映画で庵野監督はエヴァンゲリオンに決着をつけたが、TV版最終回やAir/まごころを君で描いた世界に決着をつけたわけではない。本当に、ただ単に、エヴァンゲリオンを終わらせただけである。
「ネルフの面々は子供に責任を押し付けてばかり」と批判されたからQで責任を引き受ける大人を描いた。今作では、「結局〇〇ってなんだったの?どういうこと?」と聞かれたからアイデアをふんだんにぶちまけて過剰に説明を行い、TV版で「え?終わり?」と皆を戸惑わせたからハッピーエンド感の強いラストを作った。それだけ。
人類補完計画を進めるNERV、それを止めるWILLE。決戦の舞台ははセカンドインパクトのあった忌まわしき地、南極…にあるよくわからない空間…の向こうにあるさらによくわからない空間。シンジとゲンドウは力ではなく言葉で語り合い、補完を望んだゲンドウをシンジが救済し解放し、責任を引き継いで自分の願いを果たした。その願いとは、エヴァンゲリオンのいない世界。チルドレンが幸せになれる世界だった。
というシンジの願いは、庵野監督の願いだったんでしょう?TV版をハッピーエンドで〆た、Air/まごころを君にで丁寧に人類補完計画を描いた。これでもみんな文句ばかり言うものだから、邦画でよく見る『何も解決してないけど解決した雰囲気を出した見てくれだけのハッピーエンド』を作って、エヴァンゲリオンもすべて消去して終えた。
シンジとゲンドウの戦いで書き割りが出てきたのはこの映画がただの虚構であることを示すため。ゲンドウにアスカ、カヲルがこれまでにないほど客観的に自身の心情を饒舌に語るのも、外側の視点を作中に導入した結果。エヴァンゲリオンはフィクションであり、それを構成しているのは私の趣味か意識である、と庵野監督は主張しているのだ。
とにかくエヴァンゲリオンにけりをつけたくて、エヴァンゲリオンを終わらせたくて、申し訳程度に人類補完計画やらなんとかインパクトを盛り盛りに描いて、最後はよくある展開を模倣しつつ物語を着陸させた。「なんやかんやあってみんな幸せになって暮らしましたとさ。おしまい」を地で行った作品。
ただ二人だけ、シンジとマリだけはエヴァンゲリオンの外に飛び出した。シンジがアスカともレイでもなく、破で突然登場したポッと出の女と結ばれたのは、庵野監督がエヴァンゲリオンの外側から来たる救いを求めていたから。アスカとレイがシンジに抱く偽りの愛(=fanaticの愛)ではなく真実の愛がほしかったから。
エヴァンゲリオンの中にいたのでは幸せになれない。外にいる誰かが助けてくれない限りは。庵野監督は誰かに助けてもらったことにしてエヴァンゲリオンから抜け出した。抜け出す際に大人を大人として描き、悲劇のチルドレンに幸せを与えたのは、シンジと同様に庵野監督も責任を果たしたかったのだろう。終わらせなければ終わらないのだから。
つまるところ、庵野監督はこの映画を通して「私は好きにした。君らはもう大人になれよ」とファンに伝えているのである。シン・エヴァンゲリオン・ユアストーリー。
正直、今ほど熱心なエヴァファンでなくてよかったと思ったことはない。神話ベースのSFは物語の本筋にはなく、マクガフィンどころかすべてノイズ。青春映画でいったら海に向かって石を投げるレベルの閑話。なくてもよいがあるとキリっとする程度の要素。TV版や旧劇場版を批判してSFの完結を待ち望んだファンはこれからもエヴァの呪縛に苦しむことになるだろう。
そして、シンジたちチルドレンに自己を投影していたファンは一人エヴァンゲリオンから脱出した庵野監督を見てどう思うのか。彼らに運よくマリが現れることがあるのだろうか。もしかしたら補完されたかったのではないだろうか。ならばエヴァの最終回としてふさわしいのはAir/まごころを君になのだが…。