「弧高のハンター、最後の叫び」ハンター(2011) マスター@だんだんさんの映画レビュー(感想・評価)
弧高のハンター、最後の叫び
森林伐採で生活する者が多い小さな町は、環境保護の名の下によそ者が山に入るのを嫌う。ハンターという素性を隠して入島したマーティンは、当然のごとく白い目で見られる。
人と接することが嫌いなマーティンが、山に住む母子の家に住むしかなくなるお膳立てはここにある。
そしてもうひとつ、別な意味でマーティンの出現を喜ばないのが案内人のジャックだ。
町の者にとっては生活を脅かすよそ者だが、ジャックにとってはもっと吹っ切れない想いがある。何かと面倒をみてきた家族がマーティンを慕い始めたことに、内心穏やかではないのだ。
もともとマーティンは、独り依頼された仕事を遂行して消えていく、ただそれだけの筈だった。大自然をバックに、経験を積んだ勘と技術で、絶滅したとされるタスマニアタイガーを追い詰めていく孤高のハンター。それだけでもじゅうぶん映画になる。
だがこの「ハンター」では、そこに住民感情が立ちはだかり、やるせない男の嫉妬をぶつけてくる。さらに最後の一匹かも知れないタスマニアタイガーが絡む、利権と策謀を絡めたサスペンス・ドラマに仕上げた。
大人たちの私利私欲に関係のない子供たちは純粋だ。最初はうるさがっていたマーティンが徐々に子供たちと接するようになるのは、そこに利害関係という煩わしさが存在しないからだ。二人の子役が実に生き生きとしている。
その母親ルーシーは、夫が帰らないと分かりながらも、マーティンに惹かれていくことへの後ろめたさを、フランシス・オコナーが抑えた演技で表現。
森の中では自然に対峙する厳しく険しい顔つきで、手馴れたプロフェッショナルのハンターになりきるウィレム・デフォーだが、幼い子供たちに翻弄されて戸惑いをみせる表情が可笑しい。ずっと独りでやってきたマーティンが、母親ルーシーに対してなかなか一歩を踏み出すことができない心情を漂わせ、二人の役者が言葉もなく中年男女のプラトニックな情愛を醸し出す。
つかの間の平穏な時間を手に入れた弧高のハンターを、誰もそっとしておいてはくれなかった。
ラストの嘆きは、無意味な殺生に対するハンターとしての切なさと、大切なものを失ってしまった男としての悲しみが合わさって悲痛の叫びとなる。