「イルカと海に還るとはーー初見時の圧倒的感動は少しだけ思い出せたかな」グラン・ブルー 完全版 ノンタさんの映画レビュー(感想・評価)
イルカと海に還るとはーー初見時の圧倒的感動は少しだけ思い出せたかな
1988年公開だから37年を経てのリバイバル上映。88年当時「グレート・ブルー」(英題Big Blue、120分)のタイトルで公開された本作を、大学生だった僕は確か自由が丘で観た記憶がある。
強烈な印象を残す1作だった。
何か人生ですごく大事な、これからの自分が探していかないといけないものがこの映画中にある気がして、同時期に発売された主人公ジャック・マイヨールの自伝「イルカと海に還る日」も夢中で読んだ。日本でイルカに出会ったこと、瞑想や呼吸法に取り組んでいたこと、彼に続く素潜りダイバーたちがさらに記録を更新していったことなど、この映画の世界をさらに深めてくれる話題がたくさん書いてあった気がする。
その後、「グランブルー」(132分)のタイトルで1998年に再公開されたのも確か渋谷に見に行った。初見の時の感動は戻ってこなかった。フランス語のタイトルになったのもなんか気に入らなかったし、もう社会人になった僕には、初見の時の柔らかい心がなくなっていたのかもしれない。
今回の「グランブルー完全版」は168分と最初のバージョンから48分も長くなっていた。
ベッソン監督はその後の作品を見てもわかるけれど、一つ一つの場面やキャラクターを記号的に、何らかの象徴性を持たせて、戯画化するかのように強調するのが特徴だと思う。それがこの映画を神話や寓話のように、あるいはすごく詩的な映画にしていたように思う。
しかし、それ以降の作品や売れ線の作品を作るプロデューサーとなってからはその作風が軽さや分かりやすさ、(あんまり笑えない)ユーモアとなって、この映画のような詩的な象徴性や神話性はなくなっていった。
ベッソンの名前を見るとつい観てしまうのだが、「グレートブルー」のような無意識まで揺さぶられるような映画体験を与えてくれた彼の作品は、僕にとってはこの1作だけである。(僕自身が世間ずれしていったことによる影響が大きいののだろうけれど)。
今回Wikipediaを調べてわかったのだけれど、マイヨールはこの作品公開後に「Homo delphinus(イルカ的人類)」という本を書いていた。この映画の中でも、マイヨールは、人間社会より、イルカと海の方がピッタリくると感じている不適合者的人物として描かれている。人と接するのは苦手で、海の中にいる時だけが自分らしくいられるし、イルカとなら一晩中遊んでいても疲れることはないのである。
つまり、マイヨールはイルカ的思念の持ち主なのだ。あるいはそれを探し求めている人物といった方が良いのかもしれない。村上春樹の「羊をめぐる冒険」の羊的思念と一体化した日本社会の影のフィクサーのように。
そのイルカ的思念から見える世界こそがリアルで幸せで充実している。しかし、その認識はイルカと海の中にいる時だけの一時的なものでも、それを短時間でも得ることが人生の目的になっている…。
だからこそ、それを手にすることができなくなった実際のマイヨールは晩年心を病み、自死を選ばざるを得なかったのかもしれないと感じるのは、勝手な思い入れなのかもしれないけれと。
この作品はアメリカではハッピーエンドで公開されたという。具体的な改変内容はわからないが、おそらくは自死を選ぶかのように深夜の深海に潜ったマイヨールと彼を待つ彼の子供を宿した恋人(この妊娠設定は、前のバージョンではなかった気がする)が現実世界で幸せな家庭を持つことを示唆する終わりのはずだ。
だとしたら、よくそんな台無しのエンディングにしたものだ。実際,フランスと日本での熱狂・カルト化に比してアメリカでは酷評だったらしい。
人間世界的には死だとしても、彼の自伝のタイトル通り「イルカと海に還る」ことが、この映画のマイヨールの望みであり、超越的な永遠の生を得ることかもしれないと示唆するからこその強烈な余韻でもあるし、また現実のマイヨールはもしかするとそれを果たせなかったのかもしれない、いや、それは彼の中には記憶としてずっとあったはずだというような考え(勝手な思いこみでもあるけれど)にもつながったのだと思うのだ。
残念ながら、今回初見時の圧倒的な感動はよみがえってこなかったけれど、この映画がその後の僕に小さくない影響を与えていたことは改めて確認できた気がする。
なんだかんだ言っても、僕にとっての人生を変えた一本なのかもしれない。
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