朱花(はねづ)の月のレビュー・感想・評価
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些細な事柄を突き抜ける何か
「わけのわからない映画」「すっきりしない映画」は、決して嫌いではありません。むしろ、余韻を味わえ、再発見を楽しめる映画が好きです。 ですから、テツヤは自殺したのか加夜子が殺したのか、加夜子が宿した子はどちらの子だったのか、本当に堕ろしたのか、そもそも本当に妊娠していたのか、さらには彼らは実在しているのか、死者や亡霊といったものではないのか…といった諸々は気になりません。 けれども、つじつまの合わない些細な点がどうにも受け入れられませんでした。飛鳥に買い物に行った二人が、行きは歩きで帰りは自転車であるとか、川にざぶざぶと入っていく前から加夜子のスカートが濡れていて、帰りは濡れていない(もしかしたら乾いたのかもしれませんが。)とか。…子役が、成長後の麿赤兒さんに似ていない点は全く構いませんが。 松江哲明監督による「沙羅双樹」のメイキングで、河瀬監督は「「萌の朱雀」で、カットが変わると右手と左手が入れ替わっているシーンがある。でも、映画がきちんと成立していれば、気にならないはず。」といったことを話していた記憶があります。残念ながら、本作ではかなり気になりました。 スコアは、明川哲也さんの深みあるモノローグ(さすが元「叫ぶ詩人の会」です。)と、麿赤兒さんの出しゃばらない佇まいに対して、です。主役の若い三人より、麿赤兒、樹木希林、西川のりお三人のやりとりを観たかった、と感じました。
うーん
繊細な感じはわかるんだけど、セリフが聞き取りにくかったり、いろんなことが唐突に思えたり… 私には、ちょっと合わなかった作品かも。 自分が未熟すぎて、この感じがいまいちわかりにくかっただけなのかもしれないが…
何も語りかけてこない独りよがりの映像の羅列
万葉集の一節をヒントに、二男一女の人間模様を描きたかったようだが、その背景もストーリーも分かりづらい。 そもそも大和三山にまつわる万葉集の歌を知らなければ映画の主題が分からない。オープニングで詠むのだが、音声にエフェクトを掛けているので聞き取りにくいことこの上ない。 カメラは手持ちで、人物との閒に柱などの障害物を意図的に入れ、ドキュメンタリーのような描写が目立つが、素人が撮ったスナップ写真を繋げたようで、まるでその意図が分からない。ひとりの人間が存在するという魂の価値を描こうと試みた点ではテレンス・マリックの「ツリー・オブ・ライフ」と似ているが、その映像美とは比ぶべくもない。 大島葉子のセミヌードも意味なし。こみずとうた との情事シーンもないのに、なぜ脱ぐ必要があるのか、わからない。 時間的な整合も悪い。長い髭を剃った拓未が、あとのシーンでは髭が長く、さらに後のシーンでは少し伸びてきた髭になる。渓流に脚を踏み入れる加夜子にしてもスカートの裾の濡れ具合が前後する。ビジュアルにはこだわったようだが、編集はずさんだ。 加夜子が哲也と徒歩でスーパーに出掛けるシーンでも、なぜか帰り道は自転車だ。 そもそも、なぜそんなところに目がいってしまうかというと、話にしっかりした脈絡も抑揚もないからだ。 「命、焦がしても・・・」とは謳ったものの、そんな情熱などカケラもない。ひとりの女を愛するほとばしる情熱もなければ、ひとりの女を奪い合う男の牙を剥く情念もない。これが今風ってやつなのか、情けない。 チラシやHPで話の概略を読まなければ、人物の背景や、筋書きの深いところが分からない。たとえば、映像から加夜子が朱花という色に魅せられた染色家だとは発想しない。趣味で染色をやっているのかと思った。 ましてや話に深く関わりもしない藤原宮跡を、たかだかベルトコンベアと溝に溜まる水に反射する太陽のカットを挿入したぐらいで、最後に『遺跡の発掘は一割にも満たない』といわれても何をかいわんやである。 メジャーではない役者でドキュメンタリーな味わいを出してくれればいいものを、なぜ樹木希林を起用したのか。樹木希林が出ていなかったら観ていないかも知れないと思うと、タイトルの響きともども姑息さが見え隠れする。
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