「安井算哲の人格が破綻」天地明察 Kasanmaさんの映画レビュー(感想・評価)
安井算哲の人格が破綻
映画という限られた尺に収める以上は原作の改変は已むを得ないとはいえ、本作における改変は主人公の性格を原作と正反対にしている点で度し難く、しかも主人公の性格に由来するエピソードを残しているが為に随所に矛盾をきたしている。
例えば冒頭、道策の挑発に簡単に乗って、畏れ多くも御前にて初手天元を打った時点で原作ファンはずっこけるのであるが、かくも命知らずな暴挙を為すほどに囲碁を愛していながら神社に棋譜を忘れるという軽率に、原作ファンならずとも違和感を覚えるべきである。原作において神社に置き忘れたのは刀であり、それは春海(算哲)が刀を差し慣れておらず、また刀に愛着を抱いていないからという、彼の人格や、彼に刀が下された経緯(陰謀)に由来するエピソードだったのだが、映画ではそのような意味が全く失われている。結果、映画の算哲はギラついているくせに迂闊という人格破綻者に成り下がっている。
算哲といえば、映画では主人公の呼称が算哲に統一されている。安井算哲の他に渋川春海等の名を持っていることが、原作では彼のマルチな才能とあやふやな立場ひいては若年期のあやふやな性格を表している。観客の混乱を防ぐために主人公の呼称を統一するというのはありうる考えだとは思うが、安井算哲は碁打ちとしての名であるから、天文を主題とする本作における主人公の名にそぐわない。
さらに算哲は冒頭、安藤に「新作の」算額絵馬が掲げられたと聞いて神社へ行くのだが、そこで算額絵馬の並ぶを見て、あたかも初めてそれを見たかの如く「すごいな江戸は」と呟く。この呟きは原作の再現であるが、それは原作ではこの時初めて江戸の算額絵馬を見たから発せられたのである。原作の改変が不徹底であるために、珍妙な感想となってしまった。
しかもこの時あっさりと、関孝和が映像に登場する。原作では関孝和は後半に至るまで姿の見えない怪物であるが、映画での関孝和はとてつもなく軽い。関の稿本は興味深い程度の物に留まり、算哲は何ら打ちのめされない。これでは算哲が関に執心し2度も出題を挑む意味が無い。
ヒロインであるえんもまたおかしな改変がなされている。算哲とえんは出会った当初から互いにまぐわり合う気が満々だ。えん役の演技は帯を解くことを乞う直前まで、生娘のようである。かような一途さはいかにも映画的ではある。しかしえんが算哲の旅行中にさっさと結婚をし、しかも離縁し算哲に色目を使うに至っては、純愛物語として破綻している。旅から帰った春海とえんが結婚しないことが既定路線である以上、子供じみた純愛物語は成り立たないのだ。
また、途中のチャンバラは、まさか時代劇だから入れなければならないという固定観念のためにいれたのだろうか。算哲が刀を握れないため殺陣は成立せず、さりとて算哲を殺すわけにも行かないから、算哲の命は不自然に助かることとなった。
さらには最終盤である。日食の観測をさんざ行なってきた算哲が、あのタイミングで刀を握るのは違和感がある。これも映画的な演出のためであろう。
結局のところ本作は、原作や原作が前提とする科学・科学者への敬意よりも映画としてのお約束を優先し、しかも原作から「画になるシーン」だけを存置したがために、随所に奇形を生じてしまったのである。