「記憶を失っているようで、すべてを見透かしているような八重を、すごみとユーモアをもって体現した樹木の演技が圧巻です。」わが母の記 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
記憶を失っているようで、すべてを見透かしているような八重を、すごみとユーモアをもって体現した樹木の演技が圧巻です。
試写は早く半年前に見ました。
当時は「キツツキと木こり」の公開直前で役所広司主演の試写が続いた格好となったのです。だから役所広司の木こりのオヤジから大作家への変貌ぶりが驚きでした。
本作は古き良き昭和の家族の物語。井上靖の自伝的小説の映画化で、ロケ地にも井上靖の生前の書斎が使われているなど、リアルティにこだわって撮られていました。
これが松竹映画となると名匠小津安二郎の映画を連想せずにはいられません。実際に原田真人監督は随所に小津安二郎映画へオマージュがささげたシーンを盛り込んだそうです。
本作のポイントは、幼い頃に曽祖父の愛人に預けられた主人公の洪作は、母親八重に捨てられたという意識を持ち続けているところ。それを問い詰めたくとも、八重は認知症が進み、答えてくれません。その捨てられた思いは、洪作の家族を顧みない身勝手な行動に繋がり、妻や娘たちから総スカンを喰らって、孤独な日々を過ごしていたのでした。
洪作と八重の周囲に、洪作の妻と2人の妹、3人の娘という大家族。そんな大勢の家族との思いを交錯させる中に、家族の確執と真情も浮き上がります。ただその根っこにあるのは洪作が母親から捨てられた思いと同根ではなかろうか窺えました。そんな家族ものらしからぬえぐい台詞の応酬を見せる、濃い中身を原田監督は巧みに、重くならずにつないでいきます。特に妻や娘たちの女としてのしたたかさやたくましさがさりげなく描かれているところが特筆できます。そんな中で根底に見え隠れしてくるのは、深い愛情。
前半は登場人物の説明のような台詞や家族の何気ない会話の応酬が続き、いささか退屈しました。でも洪作と八重の過去が明かされていく後半は、親子の絆の深さを見せ付けられて、涙を禁じ得ない感動に包まれていったのです。
物語は、夫を亡くした八重が、息子の洪作や娘、孫たちと暮らすことになるところから始まります。高齢のため、認知症の症状が進み、とっくに送った誕生祝いを「まだ送っていない」と言い張ったり、娘をお手伝いさん呼ばわりしたり。徘徊も目立つようになり、一家は八重の言動に振り回されるようになります。でも洪作の
一家は年寄りを決してのけ者扱いすることなく、むしろ温かく見守っていこうとしているところにとても好感を持てました。
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記憶を失っているようで、すべてを見透かしているような八重を、すごみとユーモアをもって体現した樹木の演技が圧巻です。
樹木の演技は抑制されているとはいえ、表情豊かで動作も活発。本当にボケているのかなぁ~、ボケているふりをしているだけなのかな~とどっちともとれる絶妙な演技で笑いにして誤魔化されてしまうのですね。まるでやんちゃな子どもが素知らぬふりをしているかのような表情は絶品です。小津映画の人物とは異なるキャラでもはや樹木の作り出した空気感にどっぷり作品がはまり込んでしまったといっていいくらいなんです。
終盤、記憶を失っていく八重の中にも、大事なものが残されていたことが分かります。次第に物語の核心である洪作は幼い時になぜ捨てられたのかその真相に近づいていきます。でも前途したように八重はそのことさえ、忘れてしまったようなのです。
あるきっかけで八重が行方不明になったとき、洪作はとっさの判断で、八重の母親としての思いの宿る場所へ向かいます。そしてそこに佇んでいた八重に長年聞き出そうとしたことを尋ねるのです。
このとき八重がとつとつと口にする言葉は、予期せぬ言葉でした。その一言に洪作は驚きを隠せなかったようですが、見ている方もはっとしました。
惚けてはいても、八重のこころの消すことができない母の情の表出が宿っていたのです。親とはこういうものなのだ、と感じ入るしかないシーンでした。
このシーンによって、洪作の記憶は八重の声によって蘇っていきます。それに応えるかのように、背負われた洪作の背中の感触によって、八重の母親としての感情が蘇って、一筋の涙として描かれます。
まことに親子の絆としての記憶は、長年の風雪を超えて、一度は忘却してしまったとしても、僅かなきっかけさえあれば鮮明に蘇り、深い感銘をもたらすことを思い起こさせてくれた作品でした。
また特に確執の深かった琴子と洪作が親子の絆を取り戻していくところも良かったです。琴子役は宮崎あおい。やっぱり彼女が出演していると華が出ますね。