引き裂かれた女 : 映画評論・批評
2011年3月29日更新
2011年4月9日よりシアター・イメージフォーラムほかにてロードショー
誰もがしばし呆然とする、とんでもないラストシーンが待っている
見終わった後、一体自分はなにを見たのかと、誰もがしばし呆然とするはずだ。それくらいとんでもないラストシーンが待っている。しかしそのラストシーンに向かって物語のすべてが構築されているかというと、まったくそうではない。シーンやエピソードのそれぞれが、あるときまったく偶然にぶつかりあってそれぞれの扉が開き、主人公は次の段階に移っていくばかりなのである。
ひとりの女とふたりの男がいる。女は美貌のお天気キャスター、ひとりの男は初老の人気作家でもうひとりは大富豪のどら息子。彼女を巡って男たちが争う、というそこまではよくある恋愛映画に見える。しかしふたりの男の規格外の行動と生活スタイルと、それを敢えて強調する画面作りに見ているほうまで翻弄される。つまりその「見せかけ」に、誰もが目を奪われ続けるのである。
女にとって、彼らは一体どのように見えたのだろう。あるいは男たちにとって女はどのような存在だったのだろう。そんな心理的感情的な拠り所はあっさり無視され、物語はあっけなく進む。彼らの気持ちなんて登場人物たちだけが知っていれば良い。いや、彼らにだってわからないかもしれない。観客は彼らの行いを見るだけなのだ。そう、私たちは見るだけ。だからこそのラストシーン。向こう側の暗闇が一気に押し寄せてくる。扉は開かれたのだ。私たちはそこに一歩踏み入れられるだろうか?
(樋口泰人)